2025年6月30日

ソフトとハードの境界で。エンジニア黒岩裕輔は「なんとかする」し、人生は「なんとかなる」

  • 執筆 : 鈴木陸夫
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  • 写真 : 藤原 慶
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  • 編集 : 小池真幸
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ハンズラボでPOSレジシステム、ソウゾウ(メルカリ)でモビリティ、そして現在はNOT A HOTELでスマートホームを手がける黒岩裕輔さん。ソフトとハードの境界で一貫した道のりを歩んできたかに見えて、その実「なんとかする」と「なんとかなる」に満ちた軌跡をたどる。

学生時代にiPhoneのOSの機能拡張の開発に没頭し、その解説するブログ記事がバズり、一時は月間100万PVを記録する。そのブログがきっかけで誘われたハンズラボに一人目のiOSエンジニアとして入社し、東急ハンズのPOSレジシステムのリプレイスを推進。その後はソウゾウ(メルカリ)を経て、急成長を遂げるNOT A HOTELの1号エンジニアに。技術選定から組織作り、その他立ち上げに必要なあらゆることを担っている……。

エンジニア黒岩裕輔さんのキャリアはそのまま参考にするにはあまりに華々しい。しかも、スマホ・タブレットを飛び出してモビリティ、そしてスマートホームというように、ソフトとハードの境界で一貫したキャリア戦略があるようにも映る。僕らは知らず知らずのうちにそうしたストーリーを読み取ってしまう。

しかし、同じ事実も、そうやって後になって俯瞰するのと、リアルタイムの当事者目線とでは、まったく違ったものとして映っているはずだ。お話を伺う中で浮かび上がった黒岩さんのキャリアは、遠くの未来から逆算した戦略的振る舞いというより、むしろ目の前のヒト・モノ・コトと向き合うことの連続としてあった。

どうにもならないことを、それでも「なんとかする」。そうすれば人生は「なんとかなる」。

プロフィール

  • 黒岩裕輔
    NOT A HOTEL株式会社 Software Engineer
    1992年、神戸生まれ。大学生のときに、個人ブログ「きんちゃんぶろぐ」を立ち上げ、iOS Jailbreak CommunityでiOSの研究・iOS Tweak開発を趣味でしていた。卒業後、東急ハンズの情シスの会社ハンズラボで、自社レジをiOSでリプレースするプロジェクト立ち上げを担う。その後、新規事業立ち上げのソウゾウ(メルカリ)に入社。シェアサイクルサービスのメルチャリのサービス立ち上げをiOSエンジニアとして担い、さらにはファッションのUX改善、グロース、テックリードとしてARKitを利用したPOCを開発にも携わる。2020年、ホテルテックスタートアップNOT A HOTELに1人目のエンジニアとして参画。

ハードオフで買ってきて、分解して、ニヤニヤして

そうですね。ハードウェアというか、プロダクトが昔から好きで。学生の頃は、暇さえあれば、電気屋やハードオフに行ったりとか。今も新しいガジェットや AliExpress でガラクタをすぐに買っちゃいますし。そういうのはずっと続けてきた感じなので、ギークって言っちゃあギークなのかもしれないです。

父親の仕事の関係で小さいころからうちにパソコンがあって。別にプログラミングするとかそういう路線ではなかったんですけど、すぐにゲームにハマって、幼稚園のころにはゾンビを倒すゲーム「Doom」を父親が作ったバッチファイルで家族でローカルデスマッチをしてました。おばあちゃんや母親からは猛反対で「このままだと人を殺す人になっちゃうから、さすがにそれはやめましょう」みたいに言われて育った感じですね。

でもそのおかげもあってパソコンには結構興味を持って、大学に入ってプログラミングを始めました。のちにiOSエンジニアとして働き始めるわけですけど、初めてiPod touchを触って、そこからのめり込みましたね。

大学に入って初めて勉強しました。それまでは自ら学ぶことはなかったです。それよりはやっぱりハード。ハードオフが大好きで、高校生のころからよく行って、壊れたPSPとかDSを買ってきて、自分で分解して修理して直す、というのをやってました。

分解するのがすごく好きだったんです。分解して、ニヤニヤして、直すっていうのが。仕組みがわかるのが楽しかったのと、あとは単純に「基盤ってかっこいいよな」っていう小学生みたいな感想を持ちながら。「自分もこんなの作れるようになったらなー」なんて思いながら、よく分解してましたね。

そうですね。分解して、ゴニョゴニョやって、というのも相変わらずやってますし。今の会社、NOT A HOTELにはハードオフ好きやハッキング好きの人間が結構いるんで、導入する機材やソフトウェアを一緒に解析したりもします。そんな中で、ウルトラCを発見したりします。北軽井沢出張のあとには、佐久小諸のハードオフにみんなで寄ったりとかもしましたね。

趣味で始めたアプリ開発生活。100万PVにも色気は出さず

仕事のことまでは考えてなくて。単純にパソコンが好きだったんで、もうちょっとハードとかソフトを学べたらなと思って入った感じです。人よりめっちゃタイピングも遅く、落ちこぼれでした。

当時はちょっとアングラな世界、PSPとかDSで自作のソフトを動かすといったことが流行っていた時期で。僕もカスタムファームウェアのPSPで「自分でもソフトを作りたい」と思って趣味でプログラミングをやり始めました。でも、プログラミング初心者にとっては、あまりにもハードルが高すぎて、「これはどうにもできないわ」となって。

そんなタイミングで買ったのがiPod touchで、そこから「iOSアプリを作ってみたい」となりました。で、実際にアプリを作って、そのことをブログに載っけてということを始めた感じです。地元のバス会社のアプリを勝手に作っては、そのバス会社に営業しに行ったこともありました。

NOT A HOTEL AOSHIMA内で唯一、1棟で独立した「MASTERPIECE」にて。「立ち上げの際には、こんなに立派な部屋になるなんてイメージできてなかったです。とにかく初めてだらけのことばかりだったので、必死で(笑)」と、黒岩さん

iOSのシステムの一部を改善、使いやすくするみたいなことをしていました。一番わかりやすいのはiPhone 5sから6になったときですかね。画面サイズが初めて横方向にでかくなったんです。

AutoLayoutという動的にアプリをサイジングする仕組みがiOSに実装されるものの、リリース当初は各アプリ側が変更に追従できておらず、iOSの側が無理やり引き伸ばすから滲んで見えていたりして。それをiOSにカスタムをいれることで、無理やり綺麗に見せるアプリ(Tweak)を作ってました。毎日、学校から帰ると、怪しいプロセスやバイナリを解析したり、ログを注入して毎日夜が明けるまで、にらめっこしていました。

そうです。ただ、自分の欲しいものを作って、それがたまたま使いたい人にマッチしたらいいかな、くらいのテンションでやってました。

あんまりよく覚えてないですが、見られるときは結構見られていた気がします。

近所のヤマダ電機のゲームコーナーでバイトをしてたんですけど、それにプラスしてお小遣いの足しになるくらいの感覚でしたね。好きなものを作ってブログを書くと、ちょっとだけお小遣いが増える。技術力も伸びるし、純粋に楽しいし、いっか、くらいの感じで思ってました。

あとは、Twitterで発信すると「ああ、待ってた!」みたいに言ってくれる人もいたんで。そういうフィードバックが嬉しくて癖になっていたところもありましたね。

最初のJailbreakのアプリ(Tweak)を作るときにはすごく詰まったんですよね。まったくビルドが通らずに、「もう無理かも」と思ったくらいで。その当時界隈にはすごく有名な人がいて、同じ仕組みでアプリを開発していて、Twitterで直接コンタクトをとって「助けてください」って相談しました。そこから自力でできるようになっていった感じです。

1ヶ月ぐらい悩み続けていたことが、その人に相談したらものの10分ぐらいで解決してしまって。「なんだったんだろう、この1ヶ月は」みたいな気持ちになりましたね。ちなみに、そのときに相談した方には今、NOT A HOTELで業務委託として働いてもらってます。僕の「師匠」ですね。

当時のTwitterはコミュニティが機能していた印象がありますね。それこそハンズラボに入ったのもTwitterがきっかけですし。僕のブログを見て、アプリを使ってくれていた人が東急ハンズの社員の方で、「やらない?」と声をかけてくれて。それで入社した形です。だからたまたまというか、奇跡というか。運が良かったという感じです。

在学中はヤマダ電機のアルバイトとブロガーのみでした。卒業して最初は地元の会社に入ったんです。Androidハードウェアのカメラ部分を作る会社でした。でも、それまでiOSのことをやってきていたし、もっとiOSをやりたいと思って、早々に転職を考え始めました。そんなときに誘ってくれたのがその読者の方で。

最初は、その方が、どこの会社に勤めているのかも知らなかったんですけど、蓋を開けたら東急ハンズの子会社だとわかって。僕は神戸出身なんですが、その当時、三宮にでっかいビル型の東急ハンズがあったので、東急ハンズというものに、ものすごく親近感が湧きました。

開店10分前、「なんとかする」達成感がクセになる

そうです。販売員の人が使えるように、ユニケージっていう開発手法を取り入れて。いわゆるシェルスクリプトをベースに基幹システムを作っていました。既存の基幹システムをAWSに全移管し、なおかつレジシステムも自分たちで作っていくということをやっていた会社です。ちょうど先日、ハンズ本体に吸収されて、なくなってしまったんですけど。

僕が入ったときはまだ会社として小さくて、10〜15人ぐらいの規模だった気がします。僕はそこに一人目のiOSエンジニアとして入りました。

いや、自分にとってはすごくハードルが高くて、どうしようかなと思ってましたね。入る前も、入った後も。「えっ?ゼロからレジを作るの?」「そんなことやったことないんだけど」みたいな感じ。入社面接も一回だけで、社長からはひとこと「よろしく」と言われただけでしたし、尚更プレッシャーを感じました。また、生まれ育った神戸を出て、初めて東京で生活を始めるというのもあって、「本当にやっていけるかなあ」と思ってました。

レジを作る最初のチームには僕の他に二人いて、一人は20代後半のすごく優秀な先輩。そして、東急ハンズができた頃から電算課でずっとやってきていた50代のおじさんが一人。レジの仕様はこのおじさんが全部知っていて、序盤はその三人で話し合いながら、ゼロからレジを作っていった感じです。レジなんてヤマダ電機で少し触ったことがある程度で、なんの知識もなかったんで。「売掛ってそういう仕様なんですかー」なんて言いながら、手探りでやっていた記憶がありますね。すごくハードルが高くて、毎日が勉強でしたね。

ドメイン知識もそうですし、技術的にも毎日キャッチアップしないといけなかったです。iPadから通信して、レシートプリンターと自動釣銭機とバーコードリーダー、決済端末を動かすなんて、まったくやったことがなかったので。試行錯誤の連続で、常に「大変だな、でも毎日新しいことを学べて、めちゃくちゃ楽しい」と思いながらやってました。また、単純に作るものの量が多すぎましたね。

全投入でしたね。限界を超えて働いて、「ああ、自分の限界ってこれくらいなんだ」と気づいたりもして。そうすると先輩が差し入れをくれたりで、それを糧に頑張ってた感じです。でもすごく楽しかったんですよ。毎日のように新鮮な学びがあって。最高のチームでした。

実績がすごいと言うのは思ってなかったですが、昔から今もずっと遊ぶみたいな感覚で働いています。わからないことにぶち当たるとひたすら調べて、なんとか自分なりの解法を探して遊んでます。

一緒にレジを作っていた先輩がすごく優秀で尊敬できる人でしたね。彼は、ハンズの後、AWSに転職されたのですが、AWSはもちろん詳しいし、インフラ、バックエンド、フロントエンド、iOS、ハードウェア連携、英語と全部できるフルスタックのような人です。「なんでそんなにできるんだろう」「かっこいいな」と思って、こうなりたいと強く思ったのを覚えています。

あまり領域を決めることなく、全部を通してできるのがすごいなって。のちのち、僕自身もそういう感じになっていくんですけど。今振り返ると、このころに先輩を見ていたのが分岐点というか、「自分もそうなりたい」と思ったことが、自身へ影響したのかもしれないですね。

ある程度、店舗導入が進んだ頃に、転職をしました。ハンズラボでは辞めるまでずっとレジシステムに関わっていました。作って終わりじゃなくて、全国を回って、レジの導入に関わる、設置工事と、従業員へのレクチャーをしていく必要がありました。導入したあとも、開発しつつ、何かあるたびに電話で連絡を受けて、保守をしていました。それが楽しくて仕方なくて、出張には毎回率先して行ってました……というか、人がいないから行かざるを得なかったんですけど、全然苦じゃなかったんですよね。

自分が作ったプロダクトを使ってくれる人が目の前にいる、店舗の現場の人の生の声を聞けるのは楽しかったですね。また、現場では、何かあったら即時対応しないといけないず、お客さまが入ってくる直前、開店10分前に急にレジが全台動かなくなったみたいなこともありました。開店して、お客さまが店内を回ってレジに商品を持ってくるまでにだいたい5分くらいかかるから、15分以内に問題の原因を突き止めて、解決しないといけない、みたいな。

苦しいんですけど、できたときの奇跡の達成感はすごかったですね。そこで土壇場の解決力のようなところ、「なんとかする力」みたいなものがすごく磨かれた気がします。もちろん、そういうインシデントは起こさないようにしないといけないのですが。

まさにそうですね。

「どうにもできない」を「どうにかする」ハード沼

ハンズラボには2年9ヶ月いたんですが、さらに新しい技術領域もやってみたいと思うようになって。そこでたまたま、「メルチャリをやらないですか」と誘っていただいて、もうちょっとハンズで頑張りたい気持ちもあったんですけど、話を聞いたらとても面白そうだったのと、今を逃したらチャンスがなさそうだから絶対にやってみたいと思って、転職した感じです。

メルチャリ(現チャリチャリ)は新規事業でした。モビリティの領域で、Bluetoothで鍵の解錠したりという、自分がやったことがない領域だったので、挑戦してみたいという気持ちでいっぱいでした。

ハードウェアの楽しさをハンズで知ってしまったがゆえに。その楽しさ・面白さの沼から、抜けられない感じになってしまいましたね。

目の前に物理で動くものがあるというのがやっぱり楽しいですね。個人的には単純なソフトウェア単体のサービスを作るよりも、物理の世界線で動く、モノと連携してサービスができるっていうのが純粋に自分の性に合っています。

あとは、ハードウェア連携あるあるなんですけど、デバイス間の接続性の課題、ネットワークの不安定さ。メルチャリであれば、移動体通信を行わなくてはならなかったり、バッテリーの問題なんかもありました。ソフトウェアだけでは完結しない領域をどう制御していくかみたいなところにつらみがあって、そこを乗り越えるときが、楽しいと感じます。

そうですね。ソフトウェアだけじゃどうにもできなくて、でもどうにかしないといけない。そういうところをどう乗り越えるか、みたいな。NOT A HOTELのスマートホームもそうですけど、単純ではない複合的で難しい課題を解いてる感覚です。

リリース直後の話ですが、メルチャリは、自転車の鍵にバッテリーがついていて、3G通信ができて、ネットワークで解錠するみたいな感じだったんですけど。ほとんどQA・試験ができないまま、納品されたのもあり、そのバッテリーが2、3日しか持たないという想定外の事態が起きていました。電池が切れたら、解錠・施錠したまま動かなったりと。物理的な課題だらけでした。

その当時は、「気合でバッテリーを変えるしかねえ」と言って、みんなで街中を走り回って、バッテリーを一個ずつ付け替えたりしましたね。その後、早々に第二世代鍵を導入することになりました。そういったバッテリー問題はすごくつらかったですね。第二世代鍵のBluetoothによる解錠でも、通信の問題が発生しました。やはりデバイス間通信、バッテリー、ネットワーク。これが三大問題要因ですね。その辺りをなんとかクリアしていくのが大変でした。

同じ勝ち筋は特にないですね。愚直に、泥臭く、しっかり課題の本質を見極め、解決することだと思います。今思うと「ああできたんじゃないか」という部分もあるにはありますけど。当時は自分の考えでできることを最大限頑張ってきました。。

今はハンズ時代よりも、メルカリ時代よりも積み上げがあるから、課題解決能力は少しずつ積み上がってきたかと思います。

打算より、承認より、目の前の「超ワクワク」を

そうです。メルチャリを事業譲渡することになり、新設の会社に移ってそのままやるか、メルカリに戻るか、転職するかの三択みたいになって。だったら、せっかくなので、大きい会社のメルカリに戻りました。戻ってからは、ファッション系のプロジェクトで、ARを使ってTシャツの自動採寸をする機能開発をしていました。

結構いい精度で身丈、着丈が測れる機能を開発したのですが、費用対効果が合わず、結局リリースされることなくプロジェクト自体がなくなって。うまくリリースできなかったことと、あとは「やっぱりハードウェアと関わる開発がしたい」と思ったことで、このタイミングで一旦会社を辞めて、これからのことを考えることにしました。

「とりあえず辞めるか」と思ったきっかけは、NOT A HOTELでCXOをしている井上(雅意さん)です。彼はもともとメルチャリ時代の上司だったんですけど、どうやら辞めるらしいという話が聞こえてきて。僕自身、今後のキャリアについて、ちょっと迷っていたのも確かだし、「雅意さんが辞めるなら、僕も辞めるか」と思って。その翌日に当時の上司に意思を伝えました。

たまたま、雅意さんから、「NOT A HOTELっていう会社があって、ちょっと何するかは決まってないんだけど、ドアの鍵の検証でもしない?」って誘われて。それで最初は業務委託として関わり始めて、なんだかよくわからないけど面白そうだからという理由で入ることにしました。当時は本当に何も決まってなかったんで。純粋に「楽しそう」っていうフィーリングで入った感じですね。

まあなかったですね。もともと「なんとかなるだろう」って精神が強く、すごく楽観的な思考をしてしています。ですので、困ったら職を探せばいいかっていう感じでしたね。昔から、そのとき、思ったように、生きてます。

どちらかというと後者ですね。「これ、やってみたい!」みたいにビビッとくるような話がきたら、それに乗っかるみたいなことでここまで来た気がします。プロダクトの未来とか、今後技術がどうなるかと考えて決断してきたんじゃなく。純粋に楽しそう、ワクワクするということで。NOT A HOTELのバリューにも「超ワクワク」というのがあるんですけど、自分の原点も「ワクワクするものが作りたい」「自分自身がワクワクしたい」ってところにあるかもしれないです。

転職するときは毎回「大丈夫かな」という感じで、若干足がすくむような挑戦なんですよね。必死に精一杯頑張ってなんとかする。ちょっと時間がかかってもなんとかする、という感じ。

挫折って感じではないかもしれないですけど、そりゃあ、上を見れば、優秀なエンジニアなんてキリがないじゃないですか。そういう人には勝ち目がないから、自分は自分でできる範囲のことをしっかり、着実にやって、楽しく成長していこうと、どこかのタイミングで思うようになったので。それからは周りと比べることなく、自分よりスキルセットの高い人と出会ったら、いろいろと教えてもらいながら成長していくってことでやってきてますね。あたりまえですが、難しい問題があって、自分一人じゃできなかったとしても、みんなで力を合わせれば解決できるじゃないですか。そういう意味では、周りの環境にも恵まれてきたのかなと思いますね。

ハンズ時代……いや、もう学生時代からですね。Twitterをやっていても、「なんでこんなことができるんだ」っていう天才みたいな人・ハッカーはやっぱり一定数いるので。どう足掻いても死ぬまでには勝ち目がない。であれば、尊敬して、そういう人から学ぶ姿勢でいこうと。

「天才になりたい」といくら思っても、無理なものは無理。ただ、特定の領域に関して言えば、積み重ねで人よりも詳しくなる、ということは全然あり得る。であれば、「人は人。自分は自分」でいいんじゃないかと。単純に楽しいんですよね、自分なりの解決法を見つけるのが。いわゆる天才には敵わないのかもしれないけど、自分は自分で楽しいからいいじゃん、みたいな。自分の周りには比較的そういうメンタリティの人が多い気がします。みんな自由に、楽しそうにやっていて、すごくいいなって思います。

確かに。言われてみるとそういう世代だったかもしれない。なんでだろう。あまり深く考えるタイプじゃなかったってことなんですかね。「なるようになる」で生きてきた人間なので。めちゃくちゃ物事を深く考えて生きてきた人と比べると、すごく薄っぺらい人間なのかもしれない。ふふふふ。

そうですね。興味のあることがあったら、ちょっとそっちの方に寄ってみようかな、みたいな。そうしたら勝手に道がひらけていった感じですかね。

なにより、それで飯が食えてきたのは嬉しい話だったのかもしれないですね。仕事も趣味の延長みたいな感じで始めた部分が大きいので。すごく幸せなことかもしれない。

“ワンパン”でうまくいくわけなんてない

そのときには宮崎県の青島と、栃木県の那須のプロジェクトの構想があって、とにかくすべてにおいてスケールがデカかったんですよね。なおかつ、エンジニアとしては一人目で、技術選定から何から、すべてゼロからやっていくことになる。それもまた、自分のキャリアにおいて今までにないスケールの話だったので。その時点ではまだ構想だけで、形は何もなかったわけですけど。「これが実現できたらすごい!」と思いました。会社にとっても挑戦だし、僕のキャリアにとってもすごい挑戦。ぜひやってみたいと思いましたね。

ベッド脇をはじめ、NOT A HOTELの部屋内の各所にタブレットが設置され、宿泊時に家電などを操作する「SmartHome」が操作できる。この自社開発も黒岩さんが担当した

正直、不安はありましたね。毎回がチャレンジではあったんですけど、NOT A HOTELへの入社はさらに一気にスケールが上がる感覚だったんで。まだ会社も小さいし、自分がどうにかしないとなんともならないみたいなところがあって。そのプレッシャー、背負うものがデカかったです。

まずは予約システムをゼロから作る必要がありました。CXOやCTOと話しながら仕様を詰めること、それと同時に人を集めることにフォーカスしていましたね。自分でコードを書くというよりは、とりあえず人を集めて、その人たちをマネジメントすることにフォーカスしていました。すぐに正社員は集められないので、業務委託の人をTwitterで募ったり、周囲に声をかけたりということをやってました。

そうですね。目的を果たすためならなんでもいいと思っています。そういう意味では、採用をやるのも、業務委託で入ってきた人たちをマネジメントするのも、まったく苦ではなかったです。

これはいつも思ってることですけど、初めてやって、ワンパンでうまくいくことなんて基本ないんで。失敗しても、最初はエンジニアも自分一人しかいないし、自分でリカバリして、自分でなんとかやっていこうという気持ちでしかなかったです。

スタッフの中條大也さん(写真左)と。立ち上げ時には長期で滞在したり、その後もシステムのトラブル対応などで日々やりとりしたりと、現場チームとの関係性も厚い

そうかもしれませんね。NOT A HOTELでは、「サンクコストを気にしない」みたいな考え方がすごく浸透しているんですよね。「時間をかけて開発したとしても、納得しなかったら作り直す」みたいな精神が、メンバーみんなに共通していて。そういう文化が最初から会社にありました。それは今も変わってないですね。

そうですね。あとは、誰も拾わない領域、誰も着手しない領域を拾っていくというのも、みんなに共通するところですかね。社内では、それを「ワンチーム」と呼んでいて。開業の日付はもう決まっているから、どうやるかわからなくても、とりあえずなんとかするしかない。だから僕も、わからないながらも建築の設計図を読んだり、ネットワークをどうするかも決まっていなかったから、勉強しつつ自分で設計したりとか。浮いてそうなボールは俺が拾うか、みたいなことは、意識していろいろやってきましたね。

取材中、別の現場から相談の電話が入り、対応する黒岩さん

自分自身が担当領域を決めず、知らない分野にトライしていくことで、成長してきたこともあります。あとは、とにかく、「なんとかする」しかないから、やる。

ですね。めっちゃ言っちゃった気がします。笑

オタクでありたい。変な笑い方も含めて俺だから

気持ちいいですね。これまで青空の下で働くってことをしてきていないんで。青島はすごく暑いんですけど、毎日外でパソコンを開いて、汗水垂らしながら働くっていうのは、本当に楽しかったですね。今も現場には行って、ネットワークやAV機材の設置や、配線作業をしにいくのですが、ハウス間の移動など非効率に歩くと疲れるので、徹底的に効率化して動こうとして、別の力を消費します。

旅行するときは行き先だけ決めて、あとは計画を立てずに行ってますね。有名なお店に行くとかじゃなくて、日程もできる限りゆったりとって、ひたすらローカルを楽しむ、ローカルを体験するみたいなことをやってます。ローカル居酒屋、スナックで飲んで、隣で飲んでるおじさんとお喋りしたり、とか。それこそ青島がある宮崎もすごくローカル色が強くて、僕はめちゃくちゃ好きなんです。

青島出張の際には、宮崎市街へよく飲みに出るという。おすすめの店をいくつも教えてくれた

嫌いではないですね。オドオドしさはあるかもしれないですけど。自分自身、ギークで、オタクでありたいと思ってるんで。コミュニケーションがめちゃめちゃうまいとかじゃなくても、それはもう割り切っていて。「俺はオタクでありたいから」「ちょっと変な笑い方とか変なしゃべり方でも、それはそれで俺だし、いいじゃん」っていうスタイル。妻も「オタクな旦那、最高」「結婚するならオタクがいいよ」とか言ってくれてるんで。割り切りができて、いいですね。

今は辞めてますが、妻ももともと、青島のNOT A HOTELで運営立ち上げから働いていたメンバーなので。同じものを見てきたので、その辺はよく理解してくれてます。初期は運営メンバーもすごく少なかったので、朝から晩まで、みんなでひたすら課題解決してましたね。僕も運営の手伝いで、モノを運んだり、ラックを組み立てたり。なにせ開業の日まで時間がないので、「みんなでできることをしよう!」というスタンスで。運営メンバーが着ている制服を着て、お客さま対応とかもしてました。

チームを超えて毎日試行錯誤を頑張ってました。

旅行もそうですが、今も仕事含めて、一緒に何かすることが多いので。実験したいことがあって、気になったらコードを書いてることがあり、この前も検証的に謎アプリを作ったしな。それは続けつつも、翌週は家族で旅行しに行く、とか。融通を利かせながらやっている感じですかね。妻がゲームをしてる横で、一人でもくもくハードウェアを解体して遊ぶ、みたいなこともありますし。

義理のお母さんが宮崎市街にある「人情横丁」で営む「家庭料理 椿」にて。「妻ともよく来るんです。お母さんにも本当にお世話になっていて」と笑う黒岩さん

そうですね。結果はあとから付いてくるといいますでしょうか。どちらかというとなるようになってきたという感じが強いかもしれない。確かLIFE DRAFTは「ITエンジニアの“選択”に向き合う」ってメディアだった気がするんで、「なるようになる」っていうのはなんだか申し訳ない気持ちです。

確かに、そうですね。同じことをずっとやっていくと発見が少なくなる、発見の難易度が上がっていくというのは、確かにそうだと感じます。僕も技術スタック的にはどんどん幅広くなって、もともとはiOSだったのに、バックエンドも、フロントエンドも、インフラも、ネットワークも、ハードウェアもやって……とっ散らかってよくわからないことになってきて、でもその都度発見があるし、ニヤニヤできる部分は多いので。そういう意味では、良かったと言えば良かったと思うし、これからも興味の範囲はいろいろ持っておきたいな、と。

それこそ、家の近くには造船所があるんですけど、毎日船が組み上がっていくのを見ていても面白いな、作りたいなとか思ったりもしています。「あんな巨大な船を3ヶ月とかでどうやって作るんだろう」とか。

そういうクリエイティビティは持ち続けたいなって思います。

執筆 : 鈴木陸夫
写真 : 藤原 慶
編集 : 小池真幸