2026年4月21日

入社後は1行もコードは書いていない。それでもいつまでもプログラマー、田籠聡(tagomoris)の輪郭

  • 執筆 : 鈴木陸夫
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  • 写真 : 藤原 慶
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  • 編集 : 小池真幸
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さくらインターネットでプロダクトマネージャーを務める、「tagomoris」こと田籠聡さんは入社して1年半、仕事で1行もコードを書いていない。

それでも、自身のアイデンティティは「プログラマー」にあると断言する。そう自認できることが、仕事をするうえでは何よりの支えになると考えているからだ。

OSSコミュニティへの貢献、勉強会での知見共有、ISUCONの立ち上げ、そしてRubyの開発。田籠さんは一貫して技術の最前線に関わり続けてきたが、本人はそれらを「趣味」と呼び、仕事とは明確に線を引いている。だが、過去の葛藤や専門性への負い目を乗り越え、プログラマーとしての矜恃を保ち続けるうえで、この「趣味」が果たしてきた役割はきわめて大きかった。

仕事と趣味の両側から描かれた、プログラマー田籠聡の「輪郭」を辿る。

プロフィール

  • 田籠 聡(tagomoris)
    さくらインターネット株式会社 クラウド事業戦略本部 副本部長 プロダクト責任者
    大学卒業後、インターネットサービスプロバイダ、ITインフラ系のSIerで働いたのち株式会社ライブドアに入社し、インフラ担当やデータ分析関連を担当するプログラマーとして勤務。その後、トレジャーデータ株式会社に参画し、バイアウトなどを経験したあと離職。フリーランスとして技術顧問や個人サービス開発などに数年携わったのち、2024年8月にさくらインターネットに入社。

一直線ではなかったコンピュータとの距離感

家としてはいわゆる文系という感じで、身近にコンピュータを仕事にしている人はいなかったんです。ただ、父が新しいもの好きだったのか、割と早い時期から家にパソコンがあり、小学校に入る前には触っていました。と言っても遊んでいただけなんですが、当時は遊ぶのにも結構な知識が必要だったので。設定を書かないことにはマウスも動かない。1行2行と設定を足して、特定の場所に置くことでようやく動くみたいな時代の話です。見よう見まねですが、そういうこともやっていました。当時は雑誌にゲームのプログラムが載っていたので、小学生になるとそれを打ち込んで動かしてみることもやりました。

ただ、それだけにすごくのめり込んでいたというよりは、他にもいろいろな遊びをする中でパソコンにも触っていた、というくらい。ワープロとして使って文章を書くこともするし、ゲームもする。部活で運動もやる。中学生くらいまではそんな感じでした。

高校生になって進路選択で理系を選んだんですが、そのときの理由もふわっとしたもので。同じクラスにパソコン好きの友達がいたのと、当時はWindows 95が出たばかりで、世間的にパソコンが普通になってきたタイミングだったこともあり、なんとなくコンピュータのことをやろうかな、と。自分でロジックから考えて、という意味での本格的なプログラミングを始めたのもこのころですね。

それがですね、いろいろ悩んだ末に大学では計算機科学をやろうと思ったんですが、受けた大学に落ちてしまって。とはいえ、浪人中もそこまでプログラミングをしていたわけではなく。一浪して入った東大でコンピュータ系のサークルに入り、そこでようやく友達とゲームをやったり作ったりし始めた感じです。

東大の1・2年は教養学部ということで専門に分かれていないんですが、僕はドイツ語の単位が取れずに、その教養学部に4年もいたんですよ。足りないのはドイツ語だけで、時間はたくさんあったので、サークルの活動に明け暮れつつ、のちに就職するインターネットプロバイダのASAHIネットでサポートのアルバイトもしていました。

後期の進路も成績次第というところがあり、計算機科学には進めず。ここでも迷った末に、工学部の計数工学科を選びました。すごく簡単に言えば、ロボットを作るために必要なことをすべてやるようなところ。センサーのこともやれば、素材のことも、信号周りのこともやる。その中には当然のことながら、制御のためのプログラミングもありました。プログラミングだけを専門的に教えるカリキュラムはなかったんですが、それは別途自分でやっていたので、あんまり困ることはなかったです。

むしろそうやって広く学んだことが、今になって役立っている部分もあって。今いるさくらインターネットでデータセンター間の通信をやるうえでは、光ファイバーのどういうものが、どうつながっているといいのかといったことまで考える必要があります。大学ではまさに、光ファイバーの中を信号がどう伝わっていくのかを、数式を解いて調べることもしていたので。あまり正確なことまで覚えているわけではないんですが、だいたいの理屈としてわかることが結構役立っていたりします。

研究よりも「実際に動くもの」を

大学院には行かなかったんですよ。所属した研究室は例年、大半が大学院へ進むところだったんですが、自分は研究には向いていないと思っていたので。実際に使われるものを書く方がずっと面白いと感じていたんです。

他の会社も受けたんですが、ソフトウェアをバリバリ書いていくという意味ではここが一番面白そうに思えたので。終身雇用のように一社に勤め上げるイメージはもともとなかったから、そのとき面白そうと思えるかどうかで選びました。

アルバイトはサポートでしたが、就職したときはプログラマーとして。業務システムの開発をやっていました。プロバイダのメインの仕事はインターネット回線をつなぐことで、当時はそのうえでメールやホームページのサービスもやっていましたが、その顧客だったりプランだったりを管理するシステムです。入社初日に「来月立ち上げる新サービスのシステムを全部やってくれ」と言われて、翌日には回線会社との打ち合わせに出ることになり。「担当します田籠です。ちょっと名刺を切らしておりまして」と挨拶をして、すぐに作り始めるという感じでした。

技術的には面白い仕事だなと感じていました。業務プログラミングというもの自体がわからないところからのスタートでしたが、シニアのプログラマーが多くいる部署だったので、いろいろと教わりながら頑張って作るのは純粋に楽しかったです。事務方の要求を聞いて作るというのも、大変ではありましたけど、それはそれで面白かったですし。

そういえば、先日さくらインターネットに入社してきた人が、僕が退職したあとに事務方としてASAHIネットで働いていたという人で。面識はなかったんですが、僕がその頃に作ったシステムが今も動いていると言ってました。「仕事をしていると、あちこちで田籠さんの名前が出てくるんです」って。嬉しかったですね。当時は仕事があまりに忙しすぎて、人を増やしてもらえるように何度掛け合っても聞き入れられないから、最終的に会社と喧嘩して1年で辞めたんですけど。二十数年経って、「そんな中でも一生懸命にやっていて良かったなあ」と思えた出来事でした。

自分はプログラマーに向いていないかも

喧嘩して辞めたあと、次はどうしようかと考えるわけですが、当時の自分は燃え尽き症候群になりかけていたんです。職場にはどんなに忙しくてもシステム開発をやり続けているスペシャリストの人が何人かいたんですが、その人たちを見て「ああはなれないな」と思って。当時はそれを「自分はプログラマーに向いていない」と解釈してしまったんです。それで、コンピューティングの知識は活かしつつ、もうちょっと普通にサラリーマンをやってみるかという感じでSIerに転職しました。

今思えば、自分が燃え尽きていたのはプログラマーの適性とは関係のない、別の理由だったんですけど。当時は外の人と話す機会がほとんどなく、世界が狭かったので。ただ、その決断自体は後悔していないです。そのときの自分がそういう状態にあったのは事実だし、あのまま居続けていたら、自分の認識が大きく変わることもなかっただろうから。

そう、それも辞めた理由の一つだったんですよ。とにかく忙しすぎて、目の前の仕事を片付けるので精一杯。他のことをする余裕がなかったから。当時の業務システムは、たとえばプログラミング言語のバージョンを上げたところで劇的に改善するようなものでもなく。新しいものに触れる機会が少ないどころか、ほとんどなかった。そういう危機感が常に頭の中にありました。

いや、当時の趣味は自転車一辺倒だったので。転職後にそうした欲求を満たしていたのは、もっぱら仕事ですね。転職先はSIerではあるんですけど、OSSをベースにSIをやるという、当時としては珍しい部署だったんですよ。だからあれこれとOSSに触れることができたし、それを使って手元の仕事を良くするツールを作ることもちょこちょこやっていました。出始めだったRuby on Railsに初めて触ったのもこのころです。

SIerって何かとテストをする機会が多いんですよ。その進捗管理は普通にやると、エクセルとスクリーンショットの画像をファイルサーバーに置いて、という感じになる。それはあまりにつらいと思って、ローカルネットワークではあるんですが、ウェブで動くアプリケーションを2006年にRailsで書きました。ちなみにこれが、今のところ僕がRailsで書いた唯一のアプリケーションです。

仕組みへの純粋な好奇心が、再び情熱に火をつけた

そうです。このSIerには4年いたんですけど、4年もいるとどうしたって飽きが来るじゃないですか。仕事は引き続き面白かったんですが、次第に似たようなことの繰り返しになってくるのは否めず。そんなことを感じ始めていたちょうどそのころ、何か別のことをやってみようと思ってOSSで手を動かし始めたところ、これが面白かったので。仕事でももう一度プログラマーをやってみようという方向で考え始めました。

2009、2010年はクラウドの走りのような時期で、Google App Engine(GAE)というプラットフォームが出てきていました。何かプログラムを書こうと思い立ったときに、ゼロからサーバーをセットアップしてというのは仕事で散々やっていたので、あまりやりたくないなと思っていて。その点、GAEであれば、コードを書いてアップロードすればすぐにGoogleのインフラ上で動く。これはいいと思ってやり始めました。

最初は深く考えずに、GAE上で普通にアプリを書こうと手を動かしていたんです。ところが、当時のGAEがクセの強いプラットフォームだったこともあって、やっているうちにだんだんと仕組みの方が気になり始めて。そのうちアプリを書くことを放り出して、仕組み自体を調べる方向に行ってしまったんですよ。当時のGAEにはAppEngine ja nightというコミュニティがあって、そこへ行ってみたら、同じように仕組みを面白がって調べたり関連する論文を読んだりしている人が何人かいた。そういう人たちと仲良くなって交流しているうちに、ますます面白くなり、詳しくなり、やれることが増えていきました。

好奇心ですね。当時の自分は完全に技術的好奇心に走ってしまっていました。

ASAHIネットの元同僚がライブドアへ転職していたという縁もありましたし、当時のライブドアはウェブサービスの会社として技術者のあいだで評判が上がっている時期でもありました。有名な『4Gbpsを超えるWebサービス構築術』という技術書なんかもあったりして、行けるのであれば行かない理由がないという感じで。

実は最初の転職のときにも一瞬、ライブドアを考えたことがあったんですよ。当時のCTOだった池邉さんたちとご飯にも行って。ところが、それがライブドア事件の強制捜査の翌日だったんです。「どうですか。忙しいですか?」と聞いたら、「全部持って行かれて何もすることがないよ。それでも良かったら来る?」と言われて、さすがにそれはと思って断念したんですけど。

プログラミングがやりたいという希望は伝えていたんですが、それまでにいたのがインフラ系のSIerだったので、「いきなりサービス開発に入れるよりは」ということで、インフラ系のチームに配属されました。

でも、入ってみたらこれが4人しかいないチームで。チームのボスと、何年かいるシニアの人、それと当時すでに有名だったkazeburoさんと僕の4人。当時のライブドアはとにかくサービスの数が多かったんですが、そのすべてを僕ら4人で見なければならず、めちゃくちゃ忙しかったですね。サービスそれぞれのパフォーマンスを見たり、アラートを受けて深夜にトラブル対応したり。一方で、古くなっていたホスト管理システムを作り直すこともやっていました。

境界を超えた活動がもたらす「利他的な果実」

仕事はめちゃくちゃやりやすくて、とにかく楽しかったですね。業務時間中はお互いに隣にいてもずっとチャットでやりとりをして、誰かが面白いことを言うと一斉にドッと笑うという、エンジニアらしいカルチャーで。最初に入ったASAHIネットがそうだったので、「うわ、見覚えある!」という感じで、慣れるのも早かったと思います。

一方で1社目と決定的に違ったのは、外との接点があることでした。当時は勉強会ブームだったので、あちこちのオフィスへ出かけて行って、いろいろな人と話をしたりもしていました。サイバーエージェント、DeNA、MIXI……当時は渋谷が多かったですけど、それこそ新宿にあったさくらインターネットのオフィスにも勉強会に行ったことがありました。ちなみに、そのころはライブドアのオフィスも同じビルにあったので、社長の田中さんとは当時からご飯に行ったことがありました。

技術者の仕事って、自分のやっている目の前の仕事がうまくいくと、直接的に会社の状態やビジネスがよくなるという性質のものだと思うんです。じゃあ「こうやってみたらうまくいった」という話をよその誰かにシェアしたら、そのぶんだけ他社に出し抜かれるのかと言えば、もちろんそんなことはない。なぜなら大抵の人はやっているビジネスが違うから。それでいて真似した相手の状態も良くなるのだから、いいことしかないんですよ。

しかも、真似をする人はただ真似するのではなくて、その人の置かれた状況に合わせて何かをするんです。そうすると「もっとこうした方がいい」とか「こういう場合はこうした方がうまくいく」という新たな知見が生まれて、今度はそれをシェアすることで、また別の人や、最初にシェアした僕の元にも返ってくる。その点、OSSは非常に象徴的で。自分の仕事のためのコードをOSSとして置いておくと、誰かがフィードバックをくれて、それだけで手元の仕事がどんどん良くなるんですよね。

ちょっとずるい話で言えば、OSSにしておけば、自分がよその会社に転職したあとに使えるというわかりやすいメリットもあります。今「ずるい」とは言っちゃいましたけど、ライブドアのような技術に支えられた会社は、技術は基本的にはコミュニティのものであると認識しているので。そのレベルの技術を自社で囲い込んでも仕方がない、と考える。だからそういう会社で働いていると、どんどんいい仕事ができるようになるんです。これはすごく大きなことだと思いますね。

「一番できない自分」になれる場所へ

ライブドアとその後合併した先のLINEでは、本当にいろいろな経験をさせてもらって面白かったんですが、ひと通りやったという感覚になっていました。

それと、クラウドに触ってきていないことにも、自分の中で思うところがありました。ライブドアもLINEも、自社のデータセンターに物理のサーバーを並べて、その上でビジネスをやっていたので。LINEは後になってプライベートクラウドを作るみたいなことをやり始めたみたいですが、当時はまだそういう感じではなく。一方で、2015年当時の世の中ではAWSやGoogle Cloudといったものがどんどん当たり前になってきていました。それを考えたら、必要に応じてコンピューティングリソースを段階的に増やすといった、クラウドらしさを活かしたサービス開発・運用をこの辺りで一度経験しておきたいな、と。これが当時、第一に考えていたことでした。

理由は一つではなく、他にもいろいろとあって。トレジャーデータは日本人が作った会社ですけど、本社はアメリカにあります。僕自身は海外で働くことに強い欲求があったわけではないんですが、「エンジニアたるもの、シリコンバレーを目指せ」みたいなことを言う人も周りにはいる。そういう声がまったく気にならないわけではなかったですし。

トレジャーデータには当時、データ分析や分散システムのトップクラスの技術者が集まっているというイメージもありました。ライブドアやLINEもトップが集まる会社でしたが、それはウェブサービスのトップであって、専門の守備範囲が少し違っていた。その分野のトップとはどういう人たちで、自分はその中でどのように働けるのかという好奇心がありました。

もちろんある程度の自信がなかったといえば嘘になりますよ。OSSでの活動などを通じていろいろな人と接していたから、自分はまあまあできる方という自覚があったのは事実です。ただ一方で、自分よりすごい人がいる環境でこそ学べることがある、というのもあるじゃないですか。そのために「自分が一番できない奴になる」という考えも、当時の自分にはあったと思う。その両方がミックスされたような感じだったと思います。

Rubyの開発が積年の“憑き物”を落とした

そうですね。マネージャーはやりたくないと思っていました。ASAHIネットを辞めるときにシニアの人を見て「ああはなれない」と思ったという話をしたと思うんですけど、その負い目をずっと引きずっていたところがあって。

確かにその後ライブドアに入り、勉強会で発表したりもして、いろいろな経験をしていました。でも、当時の自分は本当に何か一つの技術を突き詰めた専門家というわけではなかったから。そのためにスペシャリストへの負い目のようなものが常にあったんです。だからマネージャーなんてやっている場合じゃない!という感じで、エンジニアを選びました。

結局、トレジャーデータを辞めるときにも落ちなかったんですよね。自分は4年前のFindyさんのインタビューで「面白いことは境界線上にある」みたいなことを語っていて。それはその通りで、今でもそう思っているんですけど、自分で読んでいても、コアな技術を突き詰めていないことへの負い目が透けて見えちゃうんですよね。

ただ、今はまた少し違っていて。その感じ方が変わったのはその後、Rubyの開発をやるようになったからです。さすがに言語の開発にまで手を入れ始めると、「何か一つのことを突き詰めていない」とは言えないと思うから。

ああ、Rubyの開発を始めたときにはそんなことはまったく考えていなかったです。RubyKaigiへ行っていろいろな人と「もっとこんなことができたらいいね」「やった方がいいよね」という話をしていたら、次第に「あれ、ひょっとしてできるのでは?」となり、手を動かしているうちにズルズルとハマってしまったという感じ。トレジャーデータはすでに辞めていたので、時間はたっぷりありましたし。

単に面白かったからやっていたのであって、自分としてやることを大きく変えたわけではない。そう考えると、たとえばRubyをやる前の自分であっても、他の誰かから見たら十分に何かの専門家として映っていたのかもしれないです。それは自分が他の人を見て思っていたことと同じだったかもしれない。だからこれは、自分にとって大事な話ではあるんだけれども、同時に「なんとなく落ちた気がする」程度の話でもあるんですよ。

全方位で楽しい「プロダクトマネージャー」という天職

トレジャーデータにいたときも、営業の人に同行して、お客さんの困りごとを聞いたりしながらプロダクト開発をするのはすごく楽しかったんです。ただ、会社の規模が大きくなるにつれて、そうした楽しさが失われていると感じていました。自分の守備範囲が相対的に狭くなっていく感覚があったというか。ですから次はエンジニアリングそのものよりも、もう少しビジネスに関わる仕事がしたいと思っていました。

ただ、自分はずっとエンジニアリングをやってきたので、周りからはどうしてもエンジニアとして見られてしまうんですよね。これは今もちょいちょい感じることではあって。ありがたいことに、声をかけてもらうことはそれなりにあったんですが、実際に会ってこちらが「ビジネスのことがやりたい」と言うと、「そんなこと考えたこともなかった」という感じで相手が面食らってしまう。「じゃあEMでもやりますか?」と言ってくれることもあったけれど、扱いとしては新人マネージャーです。経験してきていないのだから、それも当然なんですけど。

そうなんですよ。そんな中、僕の相談に対して「クラウドサービスのプロダクトマネージャーはどうか」と提案をしてくれたのが、先にさくらインターネットに入社していたライブドア時代の同僚のkazeburoさんでした。

クラウドサービスの主なユーザーはエンジニア、特に設計を担当するアーキテクト。彼らがどういうものを欲しがっているのかを想像して作るのが、クラウドサービスのプロダクトマネージャーです。つまり、ビジネス側の職種ではあるんだけれど、クラウドを使った経験やエンジニアリングのバックグラウンドがないと絶対にできない仕事なんです。

しかも、普通にエンジニアをやっているだけではデータセンターのことはそこまでわからないけれど、自分はSIer時代にいろいろなデータセンターに行った経験があるし、いろいろなサーバーやハードウェアにも触ってきた。そういう自分がやってきたことをフルに活かせて、なおかつビジネスにがっつり関われるというのはすごく面白そうだなと思いました。

すごく都合のいいことに、全方位で楽しいんですよ。ビジネス側の人と「どうやってサービスをよくしていくのか」「どうやって売り上げを伸ばしていくのか」といった話をするのも楽しいし、お客さんのところへ行って「どういうシステムを作るのか」「何が課題で、どういう制約があるのか」を聞くのも楽しい。もちろんこれまでに培った専門的な知識を活かして意思決定することも楽しいですし、さくらインターネットが今、国内でも面白いポジションにいることも、楽しさの一因になっています。そういったすべての合わせ技で、すごく楽しむことができていますね。

自分は今も、いつまでもプログラマーである

それは今現在もそうで。一つの方向で技術を突き詰めることはRubyの開発でやっていて、これは完全に趣味なんですが、これはこれで楽しいと思ってやっている。一方で「境界線のうえで面白いことをやる」というのは、会社でプロダクトマネージャーとしてやっている。まったく違う二つの面白いことを趣味と仕事のそれぞれでやっているのが今なのかなと思っています。

さくらインターネットに入社して1年半になりますが、今のところ、仕事でコードを書いたことは一度もないんですよ。1行もない。でも、それでも自分はプログラマーだと思っているんです。

ソフトウェアエンジニアを相手に仕事をするうえで、自分がプログラマーであるという自覚があることは非常に大事です。もちろんプログラムを書いてこそのプログラマーですが、その自覚を担保しているのが、今の僕にとっては趣味の活動なんだと思う。「あっちでがっつり書いているから」というのがあるからこそ、自分をプログラマーだと思えるんだろうな、と。

そうですね。というのも、言語の開発ってなかなか仕事に直には結びつかないんですよ。自分がやったことで言語の性能がちょっと上がったとして、それが自社の環境に反映されるまでには何年もかかる。新しい機能の追加ともなれば、さらに気の長い話です。というのもあって、仕事と趣味のRubyをそれぞれ別のものとして自分の中に置いておく、という整理の仕方をしているんじゃないかな。

趣味で書き続けるということを辞めたときが、僕がプログラマーではなくなるとき……というか、ずっと書き続けるんだと思います。僕はいつまでもプログラマーでいたいんですよ。

いや、変わってないですね。AIは便利です。いろいろなことをやってくれる。それはいい。でも、そもそも何をやるのかを決めるところは、AIにはできないと思っているので。Rubyの開発でもそうですし、自社サービスの改善でもそうなんですが、「こうなったら世界が良くなる」というのは、どこまでいっても思い込みでしかないじゃないですか。なぜなら、それは今はまだないものだから。「これがあったら世界は確実に良くなる」なんて誰にも言えない。言えないが、それでもやるのである、実現するのであるというのは、少なくとも今後しばらくは人間にしかできないんじゃないかと。

それを実現するところでツールとしてAIを使う・使わないというのは割とどうでもいい話で。「こうあってほしい」「だからこれをやるのである」と決めるのは人間のプログラマーがやることだと思っているし、それこそが楽しいことだと思っているんです。

執筆 : 鈴木陸夫
写真 : 藤原 慶
編集 : 小池真幸

編集後記

「仕事としてはコードは書いていません。この状況でもメディアの方針と合っていますか。」今回の取材を申し込む中で moris さんからこのように聞かれ、正直とても驚いた。2025 年に Ruby 4.0 の目玉機能である Ruby::Box を開発し、Matz に RubyKaigi のスピーチで「この機能がマージされたら Ruby を 4.0 にしても良い」とまで言わしめたその仕事を、moris さんは「仕事」だと認識していなかったのだ。

しかし、 moris さんの話を聞いていくうちに、僕自身も「境界線のうえで面白いことをやる」側の人間だということがわかってきた。 moris さんと同類というとおこがましいが、僕はというと、自分で実装した機能がお金を稼ぐ喜びを感じ、「ビジネスのことがわかるようになりたい」と言ってマネジメントロールを志望するようになったのだった。そのような人間として、専門性が乏しいことへの後ろめたさはとても共感できるし、moris さんが完全な好奇心で始めた OSS 活動がもう一つの「面白いこと」になったという話はとても勇気をもらえるものだった。

moris さんとの出会いは 2023 年の RubyKaigi。とある Rubyist が Airbnb に一緒に宿泊する人を募集していると聞き、知り合いもいないながら応募した際にご一緒させていただいたのだった。今思えば、そのとき寝食を共にした方々は、コミュニティを主宰したり、自分の YouTube チャンネルを持っていたり、技術同人誌を執筆していたりと、仕事一辺倒ではない方が多かった。何かと戦略が語られがちなこのご時世、専門性やキャリアから逆算してスマートに成果を出すのが「かっこいい」と考えてしまいがちだが、「面白いこと」は自分の好奇心を突き詰めていった先に、気がつくと出会えていたものなのかもしれない。(転職ドラフト 伊藤遼)

LIFE DRAFTは、人間を取材する。

既にあるITエンジニア像をなぞるのではなく、その人がどう生きてきたのかを丁寧に聞くことで、エンジニアという生き方を描きたい。有名CTOや凄腕ハッカーばかりを取り上げたりはしない。キャリアも属性もバラバラのエンジニアに、じっくりと話を聞いてみたい。

インタビューで聞いているのは、技術や仕事のことだけじゃない。家族のこと、身体のこと、迷い、偶然、諦め、死生観、言葉にならなかった心の揺動。ほんとうは、そういうものの上にエンジニアという生き方があるはずだ。人はみな、それぞれに固有の生を生きている。その抽象化できない生き様を、LIFE DRAFTは一つ一つ映していく。

かつてないほどにキャリアが多様化するエンジニアの今日を、私たちは描いていく。数えきれない生き方がある。