2026年3月31日

ものづくりが変えてくれた人生。機械学習エンジニア河合俊典が、あえてコードを書かずにマネジメント業を引き受ける理由

  • 執筆 : 鈴木陸夫
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  • 写真 : 藤原 慶
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  • 編集 : 小池真幸
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「中学2年の夏休み、貴重な時間を宿題なんかに使いたくないなと思っていたら、画面を見ているうちに『これ、自動化できそうだな』って気持ちが生まれてきて……」

「ばんくし」の名で知られる機械学習エンジニアで、現在はエムスリーでVPoEを務める河合俊典さんの原点は、この少し後ろめたいハックにあった。

学校でいじめに遭い、居場所を失っていたという河合さんの人生は、この夏を境に動き出す。作ったものが誰かの役に立ち、ほんの少し自分の立場も変わっていく。その体験が「ものづくりで人生は操作できるし、世界は変えられる」という信念を心の深いところに植え付けた。

作り手をリスペクトし、だからこそ「エンジニアリングマネジメントは悲しい側面もある」と言いながらも、VPoEを引き受ける。Sansan、Yahoo、CADDiと辿った河合さんの華々しいキャリアは、ただひたすらに「理想のものづくり」を世に広めるためのものとしてあるようだ。

プロフィール

  • 河合俊典
    エムスリー株式会社 業務執行役員 VPoE
    高専にて電気情報工学を学んだ後、大学編入。機械学習理論に関する基礎研究を行う傍ら、株式会社Usageeにて機械学習アルゴリズムの実装をアルバイトとして経験。2016年、Sansan R&D部門に入社。画像認識エンジンや自然言語処理APIを開発。その後Yahoo! JAPANに転職。ヤフオク!機械学習モデリングチームのリーダーとして開発、マネージメントに従事。2019年2月よりエムスリー株式会社、機械学習エンジニア。MLOpsやチームの環境整備、プロダクト開発を行う。2022年、CADDi株式会社にジョイン。AI LabにてTech Leadとしてチーム立ち上げ、マネジメントを経験。エンジニア採用チームを推し進め、Tech HR Leadを兼任。現在はエムスリー株式会社に出戻り、VPoEとして組織作りに邁進中。

中2の夏、「ハッカー」として目覚める

簡単に自己紹介させていただくと、普段はVPoEという仕事をしていて、マネジメントをやっています。最近の趣味は子育て、あとは盆栽教室に行ったりとか、改めてコーチングの勉強したりとか、いろんなことやってます。昔からいろんなことをするのが好きで、学生時代だとロボコンや鳥人間コンテストに出たりしていました。

そんな「なんでも屋さん」なので、いろんなエンジニアの気持ちがわかるというか、それを活かしてVPoEをやっています。エムスリーにもいろんなエンジニアがいますからね。それぞれの気持ちを尊重するという立場にいます。

私は両親が教師なんですよね。私が生まれた1990年代と言えば、ちょうど「コンピュータを使って教員も便利に仕事しよう!」みたいな時期で。Wordはまだメジャーなツールじゃなく、一太郎とかを使いながら、たとえば学校の宿題を作ろう、とか。書類もまだフロッピーでやり取りしてましたね。そういう時代に、親が教師2人なんで、「一台くらい、そろそろ買ってもいいんじゃないか」というので、家のリビングにパソコンが来るんですね。

で、私はと言うと、そんなにめちゃくちゃ学校に行けてるタイプじゃなく、学校行く振りをして、親が出勤したなというタイミングでこっそり家に帰ってきたりしていました。小中と、家にいるあいだはパソコンの前にずっと座っていて。当時で言うと、たとえばFlashから始まり、2ちゃんねるとか、そういうインターネットの主要なところはひと通り経験して、HTMLという存在とか若干の書き方、ブログくらいだったら書けるくらいのところが素養としてはありました。

そんな中、中学2年生くらいのときに、学校にeラーニングっていう、今だと結構当たり前だと思うんですけど、英語とか数学の問題をウェブで解くやつが出たんですね。4択の問題で、一日たぶん15〜30分くらいで解けるものが、夏休みの宿題として、試験的に導入されて。夏休みの宿題だから、それが15時間分くらいあるわけです。やりたくないですよね。中学生の貴重な15時間をそこに使いたくないという気持ちがあり、その画面をぼーっと見ていた。

そうしたら次第に「なんかこれ、自動化できそうだな」っていう気持ちが生まれてきまして。

今となってはなんでそんな実装になってたのかわからないんですけど、4択の問題がサーバから我々の目の前のパソコンに送られてくる際に、answerっていうキーが同じXMLの中に入っていて。自分がポチッと回答した結果と、そのanswerっていうキーを見比べて、合ってたか合ってなかったかをサーバに送り返すっていう実装だったんですね。「普通にサーバ側で合否の処理をすればいいのに」と当時から思ってましたが、でもこれは自動化チャンス。答えが送られてきているので、答えのボタンをポチッとやるスクリプトですべて完成ですよね。まあたぶん、なんやかんや2週間くらいかかったんじゃないですかね。結局宿題やった方がよくね? っていう時間をかけて、自動化をやったんですよね。

で、学校の掲示板みたいなやつが当時流行ってたので、そこにスクリプトと使い方、まあ解説ですね、を貼り付けたんですよ。そうしたら夏休み明け、学年ほぼ全員がそれを使ってるみたいな感じになっていて。最終的には犯人探しが始まって、先生にめちゃくちゃ怒られるんですけど。

だからあまり誇れる話ではないんですけど、でもそこで二つくらい思ったことがあって。

当時で言うと、たとえば『BLOODY MONDAY』とか、もっと前だと『攻殻機動隊』とか、ああいう作品で描かれていた「ハッカーが活躍する」ってこういうことなんだっていう、厨二病精神が生まれてきたのがまずあったし、なんやかんやで、学校の中で「こいつ、使えるやつだな」ってなって、カーストが上がったまではいかないんですけど、普通の学校生活が送れるようになった。

結局それをきっかけにコンピュータをもっとやり始めて、そのまま高専に行くんです。で、高専ではオタクの友達を見つけてっていう感じの人生だったんですけど、その転機となったのはやっぱりこのときで。

自分の作ったもので他人の人生に関与できた感覚がすごくあったし、逆に自分の人生も変えられたなと思っていて。この原体験がずーっとあるんですよね、私の中には。だから「みんなもプログラミングとかものづくりによって、自分や他人の人生をより良いものにできるよ」と思っているし、逆に「それぞれが作ったものがお互いにネットワーク的に関与することで、より良い社会になっていくんじゃないのかなー」とも思ってるっていう感じです。

UWSC(=Umiumi’s Windows SCript)ってやつですね。Umiumiさんって方が作っていた、マウスとかキーボードとかブラウザからデータを取得できる、今で言うAutomatorみたいなWindowsの自動化ツールがあって、最初はそれを使ってました。たぶん「ウインドウズ 自動化」で調べたりとか、2ちゃんねるとかで知ったんでしょうね。

そこからはもう、掲示板とか、「ゲームプログラミングの館」とか、ああ、「スラッシュドット」とかもそうですね。そういうプログラミングができる人たちが集まって、お互いにボコボコに殴り合ってるところで質問をして。そのたびに「そんなことも知らないのかよ」みたいなことを言われて、くそーって思いながら開発してましたね。「できました!」って言って、掲示板に貼って、みたいな。少しずつできることが増えていく感じでした。

そうですね。ずっとやってましたね、小学校のころ。なんなら作ってました。ただ、そんなにバズるものでもなく。とりあえず「作る側」に回ってみようかな、みたいなやつでしたね。

いや、あんまり。Flashとかは、ただ時間があったってだけですね。でも、父親は好きでしたね。たとえば、同じ夏休みの宿題シリーズで「貯金箱を作ろう」とか、そういうときの父親の顔が楽しそうだったのは覚えてます。でも自分がそのとき、ものづくりに熱中してたかって言うと、そうではない気がする。

どちらかと言うと、インターネットが好きだったんだと思います。「ハッカーへの憧れ」みたいなのはこの時点でなんとなくあるにはあったんですけど、「だから自分で作る側に回るんだ!」って意識が芽生えたのは中学2年の夏休み、という感じですかね。

実は、当時あんまり学校に行けてなかった理由は、ゴリゴリにいじめられてたからなんですよね。愛媛の本当にど田舎にある中学校で、ドラマで描かれるような、「机に花が置かれる」とか「4月に買った教科書が5月には全部びしょ濡れ」とかありました。親が教師なんで、なんか親にも言いづらくて、だからこっそり家に帰ってた。そういう根暗なやつがハッカーになるっていうイメージがあったのかもしれないです。トップオブトップの厨二はそこにいくんだっていうイメージが。喋ってて思いますが、ステレオタイプですよね。でも中学生なんで意思決定の軸も明確じゃなく。

私の中ではオタクの究極系みたいなところにハッカーが位置付けられていて、根暗なりのポジションの見せつけみたいな感じだったのかなと思います。他にできることがないんですよね。運動もできないし、色白で、背が小さくて、体力がなく、大して面白い事が言えるわけでも勉強を他人に教えられるレベルでもない。みんなに貢献できることがない。中学校くらいになると、だいたいお互いの貢献し合いで関係が成り立ってたりするじゃないですか。それは物理的なニュアンスの貢献だけじゃなく。友情とか。お互い「一緒に居て楽しいな」があるから付き合ってる、みたいな。

あんまりなかったんだと思いますね、提供できるものが。その中でやれる唯一のことがコンピュータだった、みたいなところはあるかもしれないです。それがハッカーのイメージと結びついて、強い憧れになったのかな。初めて言語化しましたけど。

高専で染みついた「ないなら作れ」

高専に入ってからは、めちゃくちゃ楽しかった記憶しかないんですよね。みんなコンピュータが好きだし、ロボコンとか、さっきも言った鳥人間コンテストとか、いろんなものづくりをさせてもらえたんで。ひたすらものを作ってたら卒業のタイミングが来た、みたいな感じ。

そこから大学に進んだ経緯で言うと、当時の私には「ロボットを動かすにあたってAIが必要」みたいな考えがあったんですよね。で、研究室も偶然そういうところにいて、ロボコンもやってたので、ソフトウェアというか、AIを書いてみたらいろんな面白いことができるなっていうのを感じていました。まだディープラーニングとかそういうのも出てきてないころですね。

すごくデカいことを言えば、今巷で言われるところのAI、人と対話して、いろんなものを動かして、自動化してみたいなことができるAIになっていくだろうなと当時から強く思っていて、そこに向けてできることをやっとこうかなと思って選んだのが大学進学でした。当然、先生からはめっちゃ止められたんですけど。

ソフトウェアで生きていくなんて!って時代だったので。高専では電気電子情報工学科ってところにいたんで、もちろんプログラミングもやってたんですけど。どちらかと言うと電気、たとえば発電装置、雷くらいの高電圧を流せる機械とかがあるんで、それを使って合金に高電圧をかけて、街中にあるものに雷が落ちたときにどういう性質変化が起きるか、みたいなことをやっていて。「絶対、四国電力に就職した方がいいよ」って言われてましたね。

当時、ソフトウェアで働くことは「きつい・汚い・帰れない」の3Kみたいなことが言われていて、オフィスに泊まってダンボールで寝て、今ほどインターネット上に情報もないので、紙の仕様書をペラペラめくりながらなんとか開発してる、まだそういう時代だったんです。先生からは、すべからくそういうものだと脅されてました。だから「ソフトウェアで働くくらいだったら、電力会社で出世コースに乗った方がいいんじゃない?」って止められて。

でも私は厨二病なんで、そう言われると行きたくなっちゃうんですよねー。先ほど話した原体験みたいなのもあったし、そういう環境も嫌いではなかったので。ロボコン大会の前週の部室とか大体そんな感じですからね。それで大学はものづくりし放題みたいな大学に行って、そこでも作ってばっかり、バイトでもウサギィっていう、大学の先輩が所属してたAIを作る会社で手伝いをさせてもらったりとか。そうすると気づいたら仲間が増えている、という感じ。

そうこうしていると、「Sansanって会社が学生に寿司を振る舞ってくれるらしいぞ」みたいな話が舞い込んできて。今考えれば就活イベントなんですけど、私にはその意識がまったくなく、アルバイト先の先輩に誘われるままに「寿司が無料で食えるなら」と行ってみたら、当時まだCTOをやられていた藤倉さんがいて、なんやかんやで話が盛り上がり。「面接来ない?」みたいな話になって、あれよあれよという感じで決めてしまいました。

まあその過程で「Sansanっていい会社だな」とは思っていたし、大学には研究とかものづくりをしに行っているので、就活に時間をめちゃくちゃ使うみたいなことはしたくないとも思っていたので。「内定出すけど、どう?」って言われて、「行きます!」ってすぐに決めました。それで就活は終わり。気づいたらSansanにいましたね。

あんまり「学びたい!」っていう気持ちはないんですよね。「作りたい!」はあるんですけど。今でも中学校のときのeラーニングの自動化みたいなものを作りたいと思ってるし、人を助けるようなもの、使った人の価値観が変わるもの、「楽しい!」とか「こんなにラクできるんだ!」ってなるものを作りたいっていう気持ちだけはずーっとあって。それだけなんですよね。

中学校のときもいろいろ作りましたね。本当に簡単なゲームのパッチに始まり、友達のウェブサイトを作ったりもしましたし。当時シミュレーションゲームで『エイジ オブ エンパイア』ってやつがあって、それのサバ管とかもやってましたね。あとは、高専受験用の勉強アプリとかも自分で作ってました。勉強しろよって感じですけど。英単語を覚えるのに、赤いシートを使ってチェックするやつがあるじゃないですか。あれ、ちまちまずらしてやるのがめんどくさいから、椅子に寄っかかったままポチポチやるだけで英単語がフラッシュ暗算みたいに出てきて、それに答えるだけ、みたいなのを作って、自分で解いたりもしていましたね。

そんなふうに、日常の課題を解決するみたいなのが好きなんですよ。「めんどくさいな」「これ、みんなもやりたくないだろうな」ってことに常にアンテナを張っている節はあるかもしれないです。

高専のときは毎年総合文化祭みたいなのがあって、四国の高専が4つ集まって、その年に作ったものを出し合うんですよ。なのでそこに向けていろいろ作ったりとか。ロボコンでもソフトウェアを作ったし、鳥人間コンテストだと空力シミュレーター、どういう飛行機が一番飛ぶかを計算するのが結構重要なところとしてあって、その辺のシミュレーターを作ってみんなに提供していました。あとは当時、PCでできる音楽ゲームに『ドラムマニア』というのがあって、あれの譜面を作るためのソフトウェアは、実は私が作ったやつが国内で一番くらいに使われてたと思います。高校生で見識が狭かったので、言い過ぎかもしれないですけど。もっと一般的な話だと、当時はTwitterがまだAPIを無料で公開している時代だったので、そういうアプリを作ったりとかもしましたし。

作るのが好きな人が周りに多かったっていうのもありますね。学校生活をやってく中で「これ、不便じゃね?」みたいなことって結構あるじゃないですか。たとえば「教室のクーラー、みんなの携帯から操作できたら便利じゃね?」みたいな。そういうときに実行に移す人が周りに多かったので。教室のクーラーを操作する板みたいなやつにラズパイをつないで、基盤を自分たちで買って作ったのかもしれないですけど、エンドポイントを公開しますみたいなことをやってくれてる同級生がいたので、「だったらクーラーの監視をして、先生がクーラーでいかに節約してるかを可視化します!」みたいなのを私が作ったりとか。

そういう、誰かが作ったものに乗っかるカルチャーも強いのが高専だったなと思っていて。「困ったら作る」が当たり前にできるようになったのは、高専のおかげだったなという気がしますね。高専の先生がことあるごとに言うんですよ。「ないなら作れ!」って。プログラムを書くときもそうだし、それ以外にも日常の、たとえば学校の課題とかでも「これがないから難しかった」とか「これがあったらできるんですけどね」とか、そういうことを言うと、「じゃあ作れば?」って言われるんです。これは私が通ってた高専が独特なのかはわからないですけど。「ないなら作る」がモットーというか、教えとしてあったと思います。

高専から進学する先って、東大、京大、東工大、筑波、あとはNAIST、豊橋、長岡技科大あたりが有名どころとしてあるんですけど、どの大学もあんまり自由にものづくりさせてくれる印象を抱けなかったんですよね。たとえば工作室とかスパコンとか、あるよとは言うけど、「じゃあ工作室見せてくださいよ」って言って見に行くと、誰も使ってなかったりとか。使うにはこの授業を受けないといけない、とか。スパコンもリソースの取り合いで全然使えないとか、そういう話を聞いて、「ものづくりにゴリゴリお金出してくれる大学って、現実にはあんまりないんだな」と思いましたね。

高専では工作室も夜中遅くまで貸してくれてたので、それこそロボコン部とかは、夜中まで部室でものづくりをやって、めっちゃ喧嘩してたんですよね。お互いのものづくりに対する熱量のぶつかり合いで、勢いあまって中庭に叩き落とされてるやつとかまでいて。それくらいものづくりに対して時間を惜しまない人たちが周りにいたので、大学って意外とそうじゃないんだなーと思った。「全部の大学がそうじゃないよ」「今の大学は違っていて」ってツッコミが入りそうですけど、さっき挙げたメジャーな大学を見学してみて、当時の私はそう感じたんですね。

だから進学先にはそれなりに悩んだんですけど、最終的に私が進学した千葉工大は、私立で、めちゃくちゃ金があって、受験者数も全国1位なのかな、すごくビジネスがうまい印象でした。工作室には最新の3Dプリンタとかが置いてあるんですけど、聞くと「いつでも使っていい」っていうんですよ。結果的にそういういい大学が見つかって解決したみたいなところはありました。

あとは進路というより、研究に頭を悩ませていた時間の方が多かったかもしれないです。それで言うと、研究は向いていなかったですね。

研究ってものづくりじゃないんですよね。いや、研究も本質的には、長い目線で見たら大きな社会とかいろんな動き、技術を作ってるわけで、今はそう思ってますけど、当時はその認識がなかったんですよね。厨二病だったってのもあるんでしょうけど、「それって世の中の課題、何も解決してなくない?」っていう短期的な目線で見てしまっていて。基礎研究と応用研究の違いとかをうまく理解できていなかったのは、結構苦しんだかもしれないです。

当時の自分は研究室で一番技術力があるわけですよ。幼少期からやってきてるんで。でも最終的に研究で成果が出せていたかっていうと、他の仲間の方が出してたので、そこのジレンマみたいなところはあって。だからさっきの「Sansanにすぐ決めちゃいました」みたいな就活の話も、ノリとしては前向きな感じで話したんですけど、思い返すと、研究に時間を割かないと成果が出ないからっていうところがあったなと思います。ひたすら論文を読んで、どういうやり方をすれば研究っていうやつで成果が出るのかって、悩んでいる時間もありました。

情報科学と情報工学の違いを考えたりとか、長期的なAIの時代を見据えてみたり、色々考えた末、結局卒業するまで感覚的には理解できないままだった気がします。大学院生ともなると色んな学会とかに行くわけですけど、私がワクワクするものって少なかったですからね。生意気にも「で、それで誰が嬉しいの?」みたいなことを思っちゃってたので。結局ものづくりであったり、ウサギィでのバイトに時間を使ってました。今どう振り返っても、それじゃあ研究、うまくいかないっすよねー。

ものづくりのユートピアを求めて

いやー、Sansanは面白かったですね。2016年入社なんですけど、まさに皆さんのイメージするスタートアップでした。よくも悪くも情熱的なカルチャーで、営業が一件決まったらみんなで集まって銅鑼を鳴らして、胴上げしてっていう。ときには喧嘩してみたいなこともあったし、個人的には研究室や部活の延長みたいに働けてましたね。みんなそれぞれやりたいことがあって、そこに対して情熱的に、まっすぐ進んでいるところがいいよなと思って、楽しくやっていました。

で、めちゃくちゃ働いてました。夜中まで働いてましたね。自分が作ったものを喜んで使ってくれる社内の人とかお客さんがいて、ものづくりできる楽しさを直に感じられるタイプの会社で、良かったなと思ってます。なんやかんやで新卒の同期と結婚もしてますからね。

SansanのR&Dは研究というより、どちらかと言うとデベロップメントの方に重きを置いていて。機械学習の知識をうまく使って、いま会社にある課題を解くというチームだったんで、私にとっては理想的でしたね。

私はもともと研究というものに対して「最先端の知識をいかに社会に応用していくか」というイメージで捉えていて、大学ではギャップに苦しんだけど、一方でSansanのR&Dは私のもともとのイメージ通りというか、機械学習の知識を使って課題を解きまくるみたいなことができたので。「ああ、こういう働き方があるんだ」と思ったし、そのときに初めて、大学で研究がうまくいかなかった理由にも気づいた気がします。今では、リサーチをやっている人達の歴史を積み重ねていく概念や考え方もリスペクトしています。

もう10年前の話ですし、詳しく話すと中の人たちから怒られそうなんで控えますけど、熱量が高い会社だったので、エンジニアからすると「こんな心理的安全性が低い環境じゃ働けないよ!」みたいな側面ももちろんありました。けど、私はそういうのを楽しめるタイプなんですよね。結局、目の前のものづくりに真剣な人たちがぶつかってるとか、考えた結果として議論になっているなら、それは大切なことですよね。そういうこともなく「とりあえず体育会系でやろう」みたいな感じだと嫌になると思うんですけど。

“本気”に対するフィット感は強くあったんじゃないかと思いますね。もっと長く働いておけば良かったなって気持ちもあります。私が入社したのってシリーズBとかCとかだったと思うんで。それが今では「日本のSaaS企業ナンバーワン」みたいになってるじゃないですか。そのままいれば良かったな、そうしたらもっとデカくなってたかもしれないな、という気持ちも、当然ありますが。でもまあ、そんなに全部が全部うまくいかないっすよね、人生って。

うちの妻はSansanにいたころにちょっとだけ体調を崩しちゃったことがあって、本当にいい会社で楽しかったんですけど、それをきっかけに家庭を気にしないといけないとなって強く自覚させられました。Sansanではザ・スタートアップな働き方をしていたので、もうちょっとホワイトな働き方をしないと家庭が回らないなということで、Yahoo! JAPANに行ったのが最初の転職です。

『パターン認識と機械学習』という、ビショップ本とか、PRMLとか、カステラ本とか呼ばれたりもする本があるんですけど、学生のころにこの本の輪読会に何度か参加させてもらっていて、その会場がYahoo! だったんですよ。そういうご縁もあって、のちにYahoo!オークション(旧ヤフオク!)チームで私の上司になる人から「良かったら受けてみたら?」って誘われたのが、Yahoo! JAPANに入ったきっかけでした。学生のころからいい会社だとは思ってましたし、日本のITをゴリゴリ進めた偉大な会社の一つだし。なおかつ、比較的大きな資本でワークライフバランスも良い会社だっていうのも知っていたので、転職することにしました。

主にヤフーオークションをやってました。実はECって広告と並んで、機械学習の花形なんですよ。私が勝手に思ってるだけかもですが、少なくとも当時、業界内でそういうところはあったと思います。レコメンデーションとか検索の最適化とか、違反出品の検知とか、そういう一つひとつのアルゴリズムの精度が1、2%よくなると、本当に大きなお金が動くし、このアルゴリズムの作り方によってユーザーが喜ぶ・喜ばないが決まる。まさにそういうことをやらせてもらってました。

なんですけど、一方ではもっと泥臭いこともやってましたね。ヤフーオークションって、実に数万種類以上のツリー構造のカテゴリから成り立っていて、たとえばCHANELみたいなブランドの下には「Tシャツ」っていうカテゴリがあるんですね。一方で、当然ですけど「洋服」っていうカテゴリの下にも「Tシャツ」がある。なので本当に「Tシャツって100種類あるねん」という状態なんです。機械学習の観点から言うと、これってめちゃくちゃ使いづらいわけです。なので、みんなで集まって本当に地道に、カテゴリの再編とかやってましたね。

「このカテゴリとこのカテゴリは言ってることがほぼ一緒だな」「ここは新しくラベルをつけたらうまいこといきそうだね」みたいなことを言って、数万件全部がうまくいくようにする。モデルを作って、みたいな花形のような仕事も一定あったと思うんですけど、どっちかって言うと、どうやって機械学習タスクをうまくいかせるかみたいな泥臭いところにも時間を割いてましたね。

大規模計算機が使える環境だったし、なにせデータが大規模なんで、そういうデカいデータを扱うナレッジとか。あとは大企業での動き方、当時はチームリーダーとかもやらせてもらってたので、「よそのチームの誰々に筋を通しておかないと」みたいな根回しというか、社内コミュニケーションというか、そういうことをしっかり学べたのは大きい気がしますね。いまのVPoE業に生きてます。

ははは。やってる時は普通にストレスでしたよ。いや、ストレスという言い方はたぶん違って、やってて学びはあるんですよ。けど、これをやり続けた先に「誰かの価値観を変えるソフトウェアを作る」みたいなことと遠い仕事だな、とは思っていました。私がやりたいのは、お客さまや社内の課題を解決して、その人の価値観がガラッと変わるようなものづくり。みんながガラケーを使ってるところに、私は”iPhone”を作りたいので。そこに行き着くのは難しいかもしれないな、とは思ってましたね。今思うと、ただビジネスやユーザとの距離が遠いか近いかであったり、大きな物事を動かす準備であるわけなので、私が未熟だったという感じですけどね。

開発って人が増えても早くなんないんだなーって、なんとなくわかってきたんですよね。エンジニアが増えればその分、社内コミュニケーションが増える。アイデアの平均化や、セキュリティリスクの上昇、教育コストも増えます。『人月の神話』って古典にだって出てくる話だし、2社経験しないとわかんないことか?って思うかもしれないですけど。人がたくさんいたらいいソフトウェアが作れる、とは限らない。

けど一方で、資本主義市場における「会社」って人をたくさん採用して大きくなりたい意思があると思っていて。属人性を減らして冗長化する事でプロジェクトの成功確率を上げたり、多くの人を採用して、多くの事業を展開する。多くの社員やユーザの生活を創っていく。これはこれで偉大な事ですよね。つまり、大きくなりたいという会社の意思とエンジニアが増えても開発は大して良くならないという実態がある。その意思と実態の中で抗ってる会社なんてないんだろうなーと思ってた……んですけど、あったんですよね。それがエムスリーっていう会社なんですよ。

エムスリーって人数は少ないんですよ。東証プライム上場企業なんですけど、私が入った当時でエンジニアは100人いなかったんで。機械学習チームも本当に数人とか。それでいてめちゃくちゃデカいインパクトを出している。コンパクトなチームでデカいインパクトを出すってタイプの会社で、それでプロダクトが作れるんだったら、それが一番いいなっていう。しかもエンジニアリング組織の観点だけじゃなく、「インターネットを活用し、 健康で楽しく長生きする人を一人でも増やし、 不必要な医療コストを一円でも減らすこと」という自ら立てたミッションに従って設計されている。

「ああ、こういう事業設計とか組織設計をやってる会社なら、より良いものづくりに近づけるんじゃないか」「自分のやりたい、人のより良いところを引き出すようなものづくりができるんじゃないか」と思って、入社することにしました。

機械学習エンジニアとしての仕事が主でしたね。医療における機械学習でイメージされるところはだいたいやりました。レコメンデーションとか、医療情報の検索とか。お医者さんが何に興味があるのかを調べるみたいな話もやりましたし。エムスリーは医療に貢献できそうなところはだいたいやっていますんで、それに関連する機械学習アルゴリズムを、いろいろ。

開発が主ですけど、人数が多くないので、インフラを作ったりとかそういうことも自分でやって。なんなら最後はアプリを書いてましたね。自分が作った機械学習のAPIを、叩く側の実装も自分でやって、プルリクエストを出す、みたいな。

ありがたいことに、なかったですね。当時はイチエンジニアとして働いてたわけですけど、エムスリーではCEOの谷村とか、当時CTOだった山崎とかと、直接話すんですよ。隔週くらいで開発定例があって、今こういうプロダクトを作ってて、こういうビジネススキームで、これくらい売上が上がると思っていて、工数はこれくらい、作りたい世界観はこうですみたいな話を、エンジニアやプロダクトマネージャーが直接、CEO、CTO、CPOにする。で、フィードバックをもらう。「それだったらこういうビジネススキームにしておいた方がいいと思うし、解くべき課題はここなんじゃない?」とか。

あとはPdMのお医者さんのインタビューに同行させてもらって、「これってこういうことですか?」みたいに聞けたりとか。めちゃくちゃ直接的な会社なんですね。それができたらエンジニアはもう、作りたい放題じゃないですか。一方で人数が少ないので、自分で手を動かすことになる。社内事情で妥協したソフトウェアができるとか、そういうことも少ないんですよね。OSSカルチャーでもあるので、不満ならPull Requestを出せばいいし。自分やチームのスキルがすべて。そこもいいですよね。だから3年半、結構楽しくやらせてもらったなと思ってます。今もエムスリーで働いているので、あんまり誉めすぎるのもどうかと思いますけど。実際楽しかったし、エンジニアとして一番成長した時間だったと思います。

エンジニアリングとマネジメントは二項対立で捉えている。

この期間はなんでもやらせてもらっていた時期で、一番幅が広がって、一番ちゃんと課題を解決できてたと思っていて、良かったんですけどね。当時、PythonとかJavaScript系の裏側がこの先はRustになっていくだろうっていう考えが私の中に明確にあって、RustのOSSとかをいっぱい作ってたんですよ、趣味で。そうしたらRustの会社であるところのCADDiから本当にお誘いがきて。いろいろ抱えていたので即答はできませんでしたけど、その後も何度もお誘いいただいていたので、半年以上経って、ちょうどプロジェクトが何個か落ち着いたあたりで、ちょっと一回“家出”をするわけですよね。

CADDiでもいろいろと経験させてもらいましたけど、エンジニアだけじゃなく、チームリーダー、マネジメント、経営会議に出るとか、本当になんでもやってみた結果、最終的には自分で会社をやろうかなという気持ちになっていましたね。エンジニアが情熱的に、やりがいを持ってものづくりができて、なおかつ社会にも影響を与えられるような組織のあり方が、きっとあるだろうなって思って。それで登記とか、どこからお金を集めてとか、具体的に動き始めていた、まさにそんなタイミングで、エムスリーの当時のCTO、現CPOの山崎が「河合さん、久々に焼肉食いに行かない?」って言ってきて。

そうだと思います。「CADDi、辞めるらしいじゃん」って言われて、「そうなんですよね、でも最近は起業もちょっと考えてて」って話をしたら、「それさ、エムスリーで一回学んだら?」って。組織を作るとか事業を作るってことをエムスリーでもう一回学んでみるのはどう?みたいな話をされたんです。

山崎ももともと自分で起業して、なんやかんやあってエムスリーに来てるんですね。その山崎に「事業をやるとなると、プロダクトに対してはもちろん、チームメンバーとか、それを使ってくれるユーザーとか、いろんなものに対して責任を背負うことになる。であれば、もう一段二段レベルアップしてからでも遅くないんじゃない?」みたいな話をされて、それをきっかけにエムスリーに戻って、VPoEをやってみるか、となった感じです。

いや、どちらかというと、私は二項対立で捉えてる方だと思いますよ。

本質的にはエンジニアリングマネジメントって悲しい職業という側面があると思ってるんですよ。エンジニアって正直、めちゃくちゃ需要があるじゃないですか。でもマネージャーはそうじゃない。エンジニアが100人いたとして、マネージャーって1人しか採用枠がないんですよね。どうしても入りたい会社があったとして、枠の数がそれくらい違う市場で戦う必要があるわけです。それに、学生時代からずーっと技術に時間を費やしてきた人たちがマネージャーになるって、その人がそのままエンジニアを続けていたらよりイノベーションが生まれていたかもしれないことを考えると、もったいないなとも思うし。

しかもマネージャーになったからと言って、めちゃくちゃ給料が上がるわけでもないじゃないですか。100人に対して1人だから給料も100倍になるかって言ったら、そうじゃない。そこも含めて、本当にマネージャーになりたくてなってる人なんているのかなって心のどこかで考えるように常にしています。それが巡り巡って、エンジニアや作り手へのリスペクトだとも思っているので。なので、わりと二項対立で考えてる方という自認です。

作り手に対する理解がない人、リスペクトがない人がマネージャーになっているときの悲しさっていうのも、それはそれで理解しているので。俺がやるしかないな、って。ここまで「作る側に回る」みたいな話を何度かしてきましたけど、「組織を作る側に回る」なんですよね。言ってみれば「ないなら作る」の精神でマネージャーをやってるだけ。

エンジニアリングの方がぜーったいに楽しいと思いますよ。私だって未だに人生で一番楽しい時間は、家族と過ごしている時間か、コードを書いてる時間ですから。特に今のAI時代のエンジニアリングは最高に楽しいと思います。まあでも、誰かがマネジメントをやらないことには、より良い世の中になんない。自分がより良いものづくりができてないのに、子供に「ものづくりって楽しいんだよ」とは、なかなかいいづらいと思うんで。

もっと言えば、VPoEをやっているのは、リーダーになっても手を動かせる、そういう環境をつくっていく方法を探っているからでもあります。常に多くのエンジニアやリーダーに作り手であって欲しいという想いで、VPoEという仕事をしています。そういう環境がつくれた先に、エムスリーの中で自分の事業をやっているやもしれませんけどね。

生まれて2年くらいはそんなに変わらなかったんですけど、子どもが2歳とか3歳とかになってくると、自分でものづくりができるようになってくるんですよね。たとえばレゴとか、積み木ができるとか。お絵描きもそうですけど。その辺りからだいぶ価値観が変わりましたね。

さっきから「ものづくりって、世の中の価値観を変えることだ」みたいな話を何度かしてきたように、誰かの価値観とか自分の人生を変えられるところが、ものづくりの一番面白いところだと思ってるんです。別に娘にプログラミングをやってほしいとめちゃくちゃ思ってるわけじゃなくて、ダンスでも、スポーツでも、勉強でもいい。でも、大きくなって何かを作る側に回ったときに、その作る楽しさみたいなものに気づいてほしいし、その楽しさがまだ残ってる世の中であってほしいとは思ってます。なので、そういう仕事をしないといけないなってところは、子どもが生まれて明確になりましたね。

端的に言えば、未来に残るソフトウェア、未来に残る価値観をちゃんと作るみたいなところが重要だよなと日々思ってますかね。より具体的には二つくらいあって、一つには、何かを楽しむためには教育とか医療とか政治とか、そういった基盤になるものが必要なので、そこに明確に貢献するような仕事をする。そこがなかったら「ものづくりの楽しさ」とか言ってられませんから。これは子どもを育てていて実感する事も多いです。それともう一つ、「ものづくりの楽しさ」を伝えるって意味では、こういう記事を書いていただいたり、いろんなところで発信していくっていうのも、その一環でやってるところがありますね。

その側面は大きいですね。でも大前提として、エムスリーのエンジニアをめっちゃリスペクトしてるんですよ。作り手としてのみんなを。エムスリーのエンジニアがあと1.5倍とか生産性が上がったら、たぶん世の中のだいたいのものは作れるんじゃないかと思ってる。

それくらいリスペクトしてるので、その人たち一人ひとりのキャリアとか技術を発展させていくことが、世の中の課題解決につながるし、最終的にはものづくりを楽しむ人が増えるっていう、私が実現したい世の中に一番近いだろうなとは思うんですよ。そこにはやりがいを感じているので。

私は普段、採用の仕事もするし、外部に登壇してお話しするみたいなことももちろんやらせてもらうし、一人ひとりのエンジニアの成長とかキャリアに向き合うような仕事、1on1みたいなこともやってるんですね。でも最終的には私、いらなくなるのかもしれないですよね。それがなくてもみんながどんどん成長できるような会社になったら、私は結構満足するかもしれない。でもそこまではやんないといけないなと思ってる。「仕方ない」のかもしれないですね。まあでも、私の人生を通したミッションは未来にあるので。やっていきですね。

執筆 : 鈴木陸夫
写真 : 藤原 慶
編集 : 小池真幸

編集後記

これまで、イベント登壇や取材記事を通じて、34歳という若さでVPoEや執行役員といったポジションを担うばんくしさんのキャリアの「筋書き」だけをなぞっていたわたしは、ただ「世の中にこんなにすごいひとがいるのか」と圧倒されるばかりだった。

いま思えば、とてつもないスピードでわたしの憧れる役割に就くばんくしさんを「自分とは住む世界が違うひとだ」と定義することは、ある種の防衛本能だったのかもしれない。
そうやって一線を引くことで、ばんくしさんと比較して今の自分に足りないものや、目の前の課題に向きあえない自分の弱さから、無意識に目をそらしていたのだ。

けれど、今回の取材でその筋書きの中身にある、泥臭い葛藤や「ないなら作る」という純粋な原体験に触れたとき、これまでの自分が急に恥ずかしくなった。
一歩ずつ自らの手で世界をこじ開けてきたばんくしさんのように、わたしも自分の持ち場で、逃げずに変化へと向きあいたい。(転職ドラフト 大中絢音)

LIFE DRAFTは、人間を取材する。

既にあるITエンジニア像をなぞるのではなく、その人がどう生きてきたのかを丁寧に聞くことで、エンジニアという生き方を描きたい。有名CTOや凄腕ハッカーばかりを取り上げたりはしない。キャリアも属性もバラバラのエンジニアに、じっくりと話を聞いてみたい。

インタビューで聞いているのは、技術や仕事のことだけじゃない。家族のこと、身体のこと、迷い、偶然、諦め、死生観、言葉にならなかった心の揺動。ほんとうは、そういうものの上にエンジニアという生き方があるはずだ。人はみな、それぞれに固有の生を生きている。その抽象化できない生き様を、LIFE DRAFTは一つ一つ映していく。

かつてないほどにキャリアが多様化するエンジニアの今日を、私たちは描いていく。数えきれない生き方がある。