エンジニアキャリアと「発信」の不可分な関係。小西裕介はなぜブログを書き続けるのか
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取材・執筆 : 鈴木陸夫
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写真 : 藤原 慶
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編集 : 小池真幸
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メガベンチャーから社員数3人のスタートアップまで経験し、現在はKyashの執行役員VPoEを務める、こにふぁーこと小西裕介さん。長く続けてきた個人ブログでも、ヒット記事を世に送り出し続ける。書いて発信しながら、キャリアを切り開いてきた軌跡。

2015年から続く個人の技術ブログ「Konifar’s WIP」。あえて雑に書くことをコンセプトに2017年に立ち上げた「Konifar’s ZATSU」。こにふぁーこと小西裕介さんはこれら二つのブログを通じて、いくつものヒット記事を世に送り出してきた。書いて発信しながら、キャリアを切り開いてきた一人だ。
エンジニアが発信すること自体は珍しくないし、その意義はさまざまなところで語り尽くされている。小西さんが書き始めたのも、そうした先達への憧れからだったという。
だからこれは個人的な物語。Kyashの「執行役員VPoE」を務める今、小西さんはかつての憧れの存在になれたのか。書いて発信することは、彼のキャリアの中でどのような意味を持ち、どう変化していったのだろう。
プロフィール
- 小西裕介株式会社Kyash 執行役員VP of Engineeringワークスアプリケーションズ、株式会社奇兵隊、Quipper Limited. を経て、2017年Kyash入社。AndroidやiOS開発を経験した後に、2019年からMobileチームのEMを経てサーバーサイド、QAチームのEMも担った。2021年にEMから離れたのち、QAチームのいちメンバーとしてテストの自動化を半年ほど手がけた後に、2022年よりVPoEとしてプロダクト開発チーム全体のマネジメントに従事。2015年頃からブログを書いて思考整理を続けている。
最初の記事から大反響。だけど一度は「書くのをやめた」


こにふぁーさんといえばブログでの発信があまりに有名なので。キャリアのことを伺いたいのはもちろんですが、その中でも書くこと、発信することが転職などの人生の選択にどう絡んでいるのかを聞いてみたいと思っています。
そもそもの経緯でいうと、1個目の「WIP」というブログを書き始めたのが2015年。なんですけど、実はそれよりも前に別のブログを持っていたことがありまして。
まだワークスアプリケーションズに勤めていたころです。外に発信している人、当時で言えばクックパッドのエンジニアなどに対してものすごく憧れがあって。自分でもやってみたいと思って調べたら、どうやらWordPressというものを使って作るらしいぞと。それで勉強会に行って、ドメインをとって。今はもうドメインが切れて見られないんですけど、そうして書いた一発目の記事がホッテントリ入りして。
すごい、一発目から! どんな内容の記事だったんですか?
自分は徳島出身なんですけど、当時はSansanのサテライトオフィスが神山町にできたくらいの時期で。祖母の家がその隣の村にあり、神山町にも子供のときからよく温泉に行ったりしていたんです。「そんなところにオフィスなんかあるのか」とちょっと気になって、ワークスを辞めたタイミングで連絡をとって。オフィスに行ってそのレポート記事を書いたら、結構読まれたんですよ。
取材までして。かなり力が入ってますね。
でも、その後それが悪い方向に行ったというか。
悪い方向?
一発目のPVがすごく上がったことで、過度にPVを意識するようになってしまったんです。今で言う「炎上系YouTuber」みたいな感じ。あそこまで酷くはないですけど、尖ったタイトルをつける、とか。表現もあまり良くなかった。明らかに自分が悪い、今考えると確実に炎上するような記事も書いてました。大炎上して怖くなって記事を消したこともあり、そのまま書くのをやめてしまって、放置しているあいだにドメインも切れて。そこからまた新しく書くかとなったのが、2015年の株式会社奇兵隊に入ったタイミングでした。
それが「WIP」。
CEOと1on1をしている中で、採用活動の一環としてまずは会社を知ってもらわなければならないという話が持ち上がって。そのためにやることの一つとして、とりあえず毎日何かしらブログを書くという約束をしました。それで40日間連続で書いたというのが最初です。
書くことに関して、炎上というトラウマ的な体験をしていたわけじゃないですか。抵抗はなかったんですか?
明らかに自分が悪かったとわかっていたので。「こう書いたら、こう捉えられるかもしれない」といったことをちゃんと考えて書けば大丈夫だろうと、スルッと受け入れられましたね。実際、思ってもみない炎上、想定しない反応みたいなことはなかったですし。
どういう理屈でどんな反応が生まれているかが理解できた。
書いていく中でだんだんと学んでいったというか。たとえば「非エンジニア」みたいな表現を使うと排他的に感じる人がいるというのは、そのときに学んだことの一つではあります。こちらとしては単に「エンジニアではない人」という意味で書いているんですけど、中には「人にあらず」みたいなニュアンスで捉える人もいる。そういうことをはてブのコメントやTwitterなどを見てちょっとずつ学んでいくにつれて、怖さもなくなっていった感じですかね。
たしかに、捉え方次第ではPDCAを回すための材料はたくさんあるとも言えますね。
本当にいろんな反応がありますね。でもそれも想定さえしていたら、あとは文章の中にどう組み込むかだけなので。ただ一方で「こういうふうに感じるかもしれない」みたいなことを考えすぎると書けなくなってしまうので、一定は「もういいや」と思って出す必要もありました。毎日書くとなると、あまり時間をかけるわけにもいかない。そういう制約があったのは逆に良かったかもしれないです。
会社を代表して発信することになるわけですけど、内容についてはどう考えていたんですか?
基本は自分がやってみて考えたことや困ったことを書く。それは今も変わらないと言えば変わらないです。その中で、開発の話と「仕事をどう進めるか」みたいな話のバランスを少なくとも半々くらいにしたいと思っていました。
あんまり開発っぽくない話を書くのはカッコ悪いと思っていたんです。今もそうですけど、エンジニアリングのことをちゃんと発表している人に対する憧れがあって。あまりエモいこととか、「仕事はこうしたらいい」という仕事論的な話、ソフトスキルみたいなことばかり書くのは美学的に好きじゃなかった。と言っても、毎日エンジニアリングのことを書くのも難しかったので、ソフトスキルっぽいことを書いたら、次の回ではAndroid開発のナレッジを書いてというように、交互になるように意識していました。


ネタを用意し、執筆し、推敲しというのを業務をやりながら行うのは結構大変では?
ちゃんと書こうとすると大変ですね。今はもう雑文を書くブログの方をメインにしているので、それほどでもないですけど。日中に人と話している中で普段自分が考えられていない話題や面白いフレーズがあったりしたら、それはどういうことかというのを夜に考えて、ざっと出す。でも当時はかなり考えて、どういう反応があるかをちゃんと想定しなきゃと思っていたので、大変は大変でしたね。
1本書くのに、どれくらい時間をかけていたんですか?
2時間、長いときだと3時間くらいかかっていたと思います。
それは業務時間内に?
朝出社する前に何を書こうかと考えておいて、オフィスに着いてから10時くらいまでのあいだに書き上げてという感じ。それで間に合わなかったら夕方に書いたりも。早起きだったので、日の出とともに家を出て、当時乗り換え駅だった大手町から散歩がてら六本木まで歩いて通勤していました。着くのがだいたい7時くらい。そこから10時まで3時間あるので、その時間を使って書いていた感じです。
「そんな時間があったらコードを書きたいよ」という気持ちになったりはしないんでしょうか。
当時はならなかったですね。コードはコードで昼間に書く時間がありましたし。まだ子供もいなかったから、夜にも書けたので。
足りないところが補完され、集合知に
文章を書くことに対してはどういうスタンスだったんですか? 仕事だからやっているという感じなのか、それともアウトプットするのが楽しかった?
楽しかったですね。今もそうですけど。どういう楽しさかというと、うーん、やっぱり反応があることかな。わからないこととか悩んでいることを書くといろんな声が上がってきて、それが集合知みたいに溜まっていくのが楽しかった。今もそうです。自分の足りないところがどんどん補完されていくのがわかるので、それが面白いです。
書いた時点で完結しているというよりは、コミュニティに何かを投じることで反応を得て、みんなで作っている感覚があった?
そうですね。だから「日記を書け」と言われたらあまり続かない気がする。やっぱり反応があるというのが自分にとっては重要なんだと思います。
ということは、公開していないけれども書き続けているという文章は……
ないですね。社内だけに向けて、みたいなのはありますけど。自分しか見られないものはないです。
WordPressで立ち上げた最初のブログは一発目の記事から大きな反響があったわけですけど、こちらも当初から想定した反応が得られた感じですか?
一発目の記事ではAndroidアプリの設計に関して「こうした方がいいんじゃないか」みたいなことを書いたんですけど、それもすごく読まれたんですよね。「いや、そんなのナンセンスだ」みたいな意見もあれば、「確かにそうだよね」みたいな意見もあって。現在DroidKaigiというカンファレンスを主催している日高さんからも反応をいただいたりと、最初から反響はありました。


おそらく答えがないことを書いていたからだと思います。当時はみんなが自分と同じように悩んでいただろうから。Googleもまだ設計指針を打ち出していない時期だったので、どういう設計で作っていくかの議論が盛り上がっていたんですよね。オフラインでは勉強会なんかもあったと思うんですけど、オンラインに出ている情報はあまり多くはなかった。その中で「こうなのかな」というふわっとしたものを出したので、みんなが自分の意見を表明しやすかったんだと思います。
タイミング的にはAndroid開発の黎明期で、皆さん手探りでやっていた。
そうです。今はアーキテクチャのサンプルやライブラリがめちゃくちゃ充実していて、「普通に作ればこうなるよね」という指針が結構決まってきているんですけど。昔はそうではなかったので。「こういう問題があるから、こう作って、こう試してる」みたいな内容の記事は、当時としては価値のある情報だったのかもしれないですね。
新卒で入ったワークスには2000人くらいの社員がいたわけじゃないですか。そういう大きな組織から移った奇兵隊は、当時は3人しかいない小さな会社。開発するものとしても大きく変わるでしょうし、かなり大胆な変化だなと。そこは「まだ正解のない面白さに惹かれた」ということだったんでしょうか。
どうなんだろう。その時点ではAndroid開発も、Railsも触ったことがなかったんですけど、「今の組織よりも楽しそうだな」と思っちゃったんですよね。あと(奇兵隊に誘ってくれたワークス時代の)元同僚に対しては、一緒に働いていた当時からめちゃくちゃすごいやつだと感じていたので。そこまで仲が良かったわけではないんですが、「一緒にやるのもいいな」と思ってしまって。給与とかもあんまり考えずに。
楽しそうに見えたというのは?
開発していたのが通信アプリだったというのはでかいと思います。奇兵隊は当時、海外向けのSNSサービスを提供していて、Googleアナリティクスを見るとすべての国の色が染まっているような感じ。百何十カ国どこでも使われているということをエッジとしていたサービスだったので、それを見たときにいいなと思って。
当時の自分はiPhoneをようやく買ったばかりくらいで、スマホ上でアプリを使えるというのがどういうことなのかも、どう作っているのかもわかっていなかった。それを2、3人で作っていると聞いたときに、めちゃくちゃかっこいいなと思ってしまって。「自分にもできるかはわからないけど、とりあえず行こう」と思ったんです。


やっぱりワークスでのお仕事とはだいぶ違いそうですけど。
ワークスでは勤怠管理のシステムを作っていました。でも、BtoBということもあって当時は貢献実感が持ちづらく、技術的にも「このままずっとJavaとDelphiとCOBOLを触っていて本当にいいのだろうか」と考えていた時期でもありました。
当時Webメディアによく登場していたクックパッドだったりカヤックだったりを「いいな」と思って見ていたり。とはいえ、そんな会社にまさか自分が転職できるとは思ってませんでした。転職活動をするという発想自体がなかった、そんな状況で奇兵隊から誘ってもらったので。
チャンスがあるなら乗っかるという感じ。
そうですね。給料も下がりましたし、当時は結婚した直後だったということもあり、上司の上司くらいの人からは「節約した方がいいよ」みたいなことを言われたと思います。
人生の先輩としてアドバイスを受けた。でもそういう声を振り切ってスタートアップに籍を移し、しかもやったことのなかったAndroid開発を手探りでやる。その毎日はどうだったんですか?
今思うと良かったですけど、当時はしんどくもありました。サーバーサイドの開発も、RubyもRailsもAndroidの開発もすべてが初めてだったので。人数としても、サーバーサイドは自分と元同期の2人だけ。彼とは圧倒的な実力差もあって、明らかに相手の負担になっていることもわかったので、すごく緊張しながらやっていました。あるタイミングで一人でプロジェクトをやり切って、ようやくちょっと安心できた感じです。
わからないことがあっても聞ける人もいないわけですよね。
Android開発については、最初はどういうふうにリスト表示するかすらわからなかったですからね。会社の伝手で技術顧問をお願いしていた人が大阪にいたので、その人に週一で相談の時間をもらいつつ。あとはQiitaの記事を書いたり読んだりしながら。当時だとDrivemodeという会社にいた横幕(圭真)さんやyanzmさん、あとはTechBoosterという同人誌を書いていた集団もいて、そのあたりの方が発信してくれていたものを見て、なんとかキャッチアップしていました。
「ただ記録したいだけなのに」。反響は足枷にも


ブログに話を戻すと、最初は採用目的で40日間連続で書くことからスタートしたということでしたが、その後は?
40日でやめたのには明確な理由があって。「あんまり採用に効かないな」と思ったんです。知られてはいても、会社に興味をもたれるところまではなかなか到達しなかった。自分個人としては知り合いが増えたし、たくさん読んでもらえてよかったんですけどね。もともとの目的を考えたらこれは筋が悪いよね、となって。同時並行で「月に2回どこかで登壇します」と宣言していたのですが、そちらだけ継続することにしました。
なのでそこから先は、自分の思考を吐き出すのにいい場所として月一くらいは書いていたと思いますけど、ペースとしては落ちていきましたね。
採用にはつながらないものなんですね。
つながらないですね。1人で発信しているだけでは直接は効かないです。
その分野の先駆者的なクックパッドやカヤックがうまくいっていたのは、会社名義で複数の人が発信していたからってことでしょうか。
だと思いますね。間接的には、発信していることが話のきっかけになって、スカウトを打ったときの返信率にめちゃくちゃ効く、という実感はありますけど。会社のブランディングという観点だと、個人がいくらやったところであまり寄与する感じはしないです。それは今でもそうです。
ただ、コミュニティに投げることで自分の考えを深めていくためのものとしては機能していった。
2015年に始めて、2016年くらいまではそうでした。でも、あまりに読んでくれる人が増えてきて、次第に雑文を書きにくくなってきて。思考の整理にも時間がかかるようになってしまったので、翌年にもう一つの方のブログを立ち上げました。「雑に書いているだけだから、変なことを書いても気にしないでね」という意味を込めて、「ZATSU」というブログ名で。


その当時でどれくらい読者が増えていたんですか?
よく覚えていないですけど、はてブのユーザー数で400くらいの登録があったかな。何かひとつ書くのにすごく気を遣うようになってしまっていて。表現もそうですし、「こう言われるかも」とかを考えるのが面倒くさくなっていた。本当はそのときに考えていたことを記録したいだけなのに、なんか嫌だなと思って、10分くらいで雑に書くブログなんだよということにしました。今でいう「しずかなインターネット」みたいなものを求めていたんだと思います。
それからしばらくは両方を並行して書いていましたが、今は真面目な方は年に4回くらい。雑な方を頻度高く、代わりに使っているという感じです。
「雑に書くものなんだよ」と宣言をすると、自分の感覚としても周りの反応としても明らかに変わってくるものですか?
感覚はやはり違いますね。何を言われても「だってしょうがないじゃん」と思えるというか。「最初から雑なものだと言ってるじゃん」「期待しすぎなんじゃない?」という割り切りができるので。すごくたくさん読まれたときなんかは、雑とかはあまり関係なく色々な反応が来ますけど。自分の気の持ちようが違うので、あまり気にはならないです。


書いて発信することにいい面も悪い面もあるというのは、この時代になるとみんなが感じていることだと思うんですけど。こにふぁーさんは当時からそれを実感していらしたんですね。でも、もともとは反応が得られるのが嬉しくて続けられたというお話でしたし、物足りない感覚にならなかったですか?
それはないですね。ユーチューバーの方がメインのチャンネルとは別にサブチャンネルを作るみたいなことをやっていると思うんですけど、自分の場合はサブチャンネルの方が楽すぎて、そちらがメインになっているという現状だと思うので。逆に、雑文ばかり書いていると焦る気持ちになったりはします。
焦る気持ち。それはどういうことですか?
ちゃんと自分の経験を世に出している人と比べると、すごく焦っちゃいますね。たとえばCTOの方とかが「この1年間にどういうことに取り組んできたか」といったことをまとめて出しているのを見ると、「ああすごくしっかりしてるな」と思うし、自分は「こんなに雑に書いているばかりでいいのかな」「あまりかっこよくはないよね」と思ったりはします。
なるほど。でも、だからこそ今でも「WIP」で年に4回は書いている。
そうですね。「ちゃんとやんなきゃ」っていうのが年に4回くらい来るので、そのタイミングでちゃんと出して、自分の精神のバランスをとっているみたいな感じかもしれない。雑文を書いて自分の考えを残すのはいいなと思っている一方で、きちんとしなきゃという考えも同時にあるので。だから両方とも残して、うまく使い分けている感じですかね。
初対面でも知ってもらえているアドバンテージ
このあと2回転職されますけど、書いて発信していったことがキャリアの転換につながったという感覚はありますか?
めちゃくちゃつながってますね。奇兵隊で書き始めて、次にQuipperという会社に行くんですけど、そのときもブログ、あとはGitHubのオープンソースのライブラリだったりをきっかけにして交流があった人から誘ってもらったので。ブログを読んで人となりを知ってくれていたし、オープンソースの何かを作ったときにも真面目な方のブログで書いたりしていたので、たくさん知ってもらっていて。Quipperのときもそうですし、そのあとのKyashのときもそう。なので、めちゃくちゃ影響はありますね。
Quipperの人からの誘いは、どんな形で?
TwitterのDMで「来ませんか」という本当にカジュアルな文言が来て、「ちょっと話を聞きに行きます」みたいなところから始まりました。それ以前もGitHubのIssue上だとやりとりはあったし、Androidオールスターズというイベントに登壇したときにも、同じ登壇者として少し話をしたことはあったんですけど。
その頃になると「ブログを読んでここに共感した」と声をかけてもらえることも増えていました。初めて会う人とコミュニケーションをとるのが得意なわけではないので、先に読んで知っておいてもらえるというのはやりやすかったです。


知らない人に「読んでるよ」と言われると気恥ずかしいと感じる人もいそうですけど。
自分は助かりましたね。月に2回登壇すると決めていたときも、話のきっかけになりましたし。基本、話したいけど話せないことが多いんですよ、自分は。会話の最初のきっかけがないとか、共通の話題をどう見つければいいのかわからないとか。今でこそAndroidだったりEMだったりのコミュニティには話したことのある人が増えましたけど。初めてのコミュニティに行くと、どう入っていけばいいのかがわからない。そういうときに声をかけてもらえると、非常にやりやすいです。なかなか難しいんですよね、初めて会う人と話すのは。
たしかに会話のきっかけって困りますよね。僕らは取材という大義名分があるから、知らない人のところにもズカズカ踏み込んでいけちゃいますけど。
最近はSREの採用を推し進めようと思って役割上動いているんですけど、僕自身はSREの経験があるわけではないので。イベントとかに突っ込んでいっても、声をかけるのにはなかなか緊張するんです。そんなときに読んでもらってる人がいると、それをきっかけに話しかけられるのがいいなと思ってます。
誘われてQuipperに転職しようと思った決め手はなんだったんですか?
英語環境です。社内の公用語が英語でした。それがエンジニアとして当時感じていた焦りを解消する決め手だったので。Androidのアプリを書いたり、オープンソースで何か作ったりといろいろと取り組んでいたものの、上には上がいるというか。英語環境でバリバリやっている人には勝てないし、そんな環境で自分は活躍できないんじゃないかという焦りがめちゃくちゃあったので。
かといって、いきなり外資に行くという決断もなかなかできないでいました。そんなときに、本社はロンドンだけど東京で働けて、知り合いもいるという環境はすごく魅力的に映りました。公用語もミーティングも英語がメインという環境でチャレンジしたかったというのが大きいです。
将来的に国際的に活躍したい気持ちがあった?
そうです。個人でAndroidのライブラリを作っている人として、当時だとSquareに在籍していたJake Whartonという人が有名で。彼はその後Googleに行きましたけど、そういうレベルの人がいるというのをAndroidを開発する中でひしひしと感じるんです。日本で言えば、サイバーエージェントにいるwasabeefさんとか。いろいろなライブラリを作って世界的に使われているのを見ると、かっこいいなと思う。今は一旦収まってますけど。いや、収まっているというか、役割が変わってそこよりも優先することがあるということですが。エンジニアのイチメンバーとしてやるときには、英語環境とか世界的に見てというのはすごく意識します。


実際にその環境に飛び込んでみてどうでした?
いやー、最初はめちゃくちゃ緊張して声が震えましたね。いきなり英語で挨拶するというのもそうですし、全社のミーティングで成果を発表するみたいなのも、気持ちもスキルもなかなか慣れなかった。そこは英語の勉強の比重を増やしてなんとか乗り切ったというのがあります。
技術的なことに関して英語の環境だからリーチできるということも?
ありました。今でこそ翻訳の精度も上がっていますけど、当時はそんなでもなかったので。ちゃんと自分で読まなければならなかった。その点、Quipperでは毎日全部英語でやるから、英文を読むのには慣れるんです。そのスピードが上がったのはすごく良かったことです。
最初は慣れなかったというコミュニケーションに関してはどうですか?
1年半くらいで退職する頃には少し慣れはしました。気後れせずに「じゃあミーティングいくか」くらいの気持ちにはなったというか。まあまだまだ磨くところはあるし、英語環境でマネジメントみたいなレベルには全然達していないですけど、なんとかキャッチアップしてやれるんだという実感は持てました。それで「次はもうちょっと小さいところで、もう一回Androidをガリガリ書くのもいいな」と思い始めました。
Quipperではそこまでガリガリ書く感じではなかった?
書いてはいたんですが、Androidエンジニアだけで7人もいたので。奇兵隊のときは最初はほぼ1人で書いていたし、その後も2人プラス、インターン生1人くらい。それがチームでやるとなると、全部自分で書かなくても良くなるので。ちょっと働き方が変わっていました。
周りに助けてくれる人がいるとか身近に聞ける人がいるという意味ではいいけれども。もっとゴリゴリ自分でやりたいという欲求が。
ですね。奇兵隊の頃には社内にエンジニアが少ない不安はすごくあって。メルカリとかサイバーエージェントとかが社内で勉強会をして、深く技術的なところを補完しながら学んでいるのを見ると、いろんなことを広く浅くしかキャッチアップできていないことにすごく焦りが出ていたんです。「チームでやっていたら、自分ももっと深く突き詰められるかもしれないのに」とか思っていました。だから一回大きめのチームでやってみて、というのは望んでいたことなんですけど、その焦りもある程度解消されたし、「そろそろもう一回、全部自分でやらないといけない環境もいいな」というふうに。そう思い始めたのがKyashに入る前くらいのことです。
でも「焦りが解消される」みたいな感覚がひと時でも得られるのはすごいですよね。
振り返ってみると、焦りのもととなっていた「英語環境」と「チーム戦」というところが経験できたのが大きかったです。完璧ではなくても「こんな感じなのか」と知ることができると、解消されるところはあると思います。
想像力が仇。救ってくれたのも書くことだった
Kyashに転職することになった経緯も伺っていいですか。
Findyに登録したら「話をしましょう」と連絡が来て。DroidKaigiの時期とも重なっていたので気づくのが数ヶ月遅れたんですけど。ちょうど英語環境とチームでの開発という焦りが少し解消され始めた時期でもあったので、話を聞きにいったら、それがすごく楽しかったんです。当時のKyashにはAndroidエンジニアが1人だったんですけど、1対1でがっつりコードの話をできたのが良かったので。それがきっかけで行くことにしました。
じゃあ、入ったときはまたプレイヤーとして。
そうです。「めちゃくちゃコードを書くぞ!」という気持ちで。実際にすごく書いてました。
でもしばらくしてEMにポジションが変わるんですよね。
変わったのが2019年なので、入社して2年くらい経ったタイミングですね。
マネジメントのポジションはこれまでのキャリアで初めてでは?
そうですね。マネジャーというロールになるのは初めてでした。後輩の育成やリーダーみたいなことをしたことはありましたけど。いわゆるピープルマネジメントは初めてです。


過去のインタビューを読むと「結構苦戦した」とありましたが。どんな状況だったんですか?
自分が勝手に気を遣いすぎることが多かったです。過度にメンバーを心配してしまうみたいなのが振る舞いとして抜けないというか。「読者はこう感じるかもしれない」という、ブログを書いていたときの発想がそのまま悪い方に出てしまうようなところがあったんだと思う。「こういう発言をしたら、もしかしたらこう感じてしまうかも」といったことを無数に考えて、しんどくなってしまうことがありました。
「書いた記事が次々バズる」という才能と裏表の感じがしますね。どういう反応があるか、こういう可能性があるかもということへの想像力が豊かなのでは。
今思うとそうかもしれないです。想像しすぎるみたいなところがあるのかもしれない。
それで、EMのポジションを自分から辞退するわけですか。
そうです。というのも、Quipperのときを除けば自分はだいたい4年で転職を繰り返していたので、「4年周期で何かしら飽きというか環境を変えたくなるタイミングが来るんだな」という自覚がもともとあって。EMをやって1年半というのは、Kyashに入ってちょうど4年くらいのタイミング。なので「そろそろそういう時期なんですよね」ということを当時のCTOと話していました。そう事前に話していたので、実際に辛くなってきたときには「このままだとまずいかもしれない。Kyashを辞めたいわけではない。だからEMを続けるかどうかも含めてどうすればいいか考えたい」という話を3、4ヶ月かけて継続的に話すことができました。
時間をかけて一番いい形を見つけていった。
そうです。だからその中にはEMを続ける選択肢もあったし、Kyash自体を辞める選択肢も、Androidエンジニアに戻る選択肢もありました。で、最終的にQAに決まった形です。
QAが落としどころになったのは。
Androidをもう一回ガリガリやるよりも、違うことがやりたいなくらいのテンションから考え始めました。当時はマネジャーとしてQAチームも見ていたんですが、そこにはやっぱり課題があって、「自分がプレイヤーだったらこうしたい」みたいな話をしていたんです。そうしたら「それは会社にとっても貢献が大きいし、じゃあその方向で」ということでまとまりました。
4年に1回来る危機を乗り越えて、そこからはまた楽しく働けるように?
めちゃくちゃ楽しくて充実していましたね。ミーティングがないのがいいですね、やっぱり。マネジャーだとどうしてもミーティングで埋まっちゃう。1日に4時間とかは必ずあったし、朝からずっとだったので。それがなくなると朝は余裕ができて、毎日海へ行って遊んでから仕事してみたいな感じで。仕事の集中力は増しますし、良かったですね。
ちょっと待ってください。「毎朝出社前に海に」というのはスルーできないな。
自宅の近くに葛西海浜公園というのがあって、干潮のときは本当に沖の方まで歩いていけるんです。9時に開くので、朝イチに干潮が来る日を狙って、子供と一緒に散歩しに行って。そこで10時くらいまで遊んで帰ってきて、10時半から朝会みたいなことを。行ってみたらすごいリフレッシュになったので、もう何十回も行っていましたね。平日だと人もいないので、貸切状態ですごくいいんですよ。


それは羨ましい!でもそんな心地いい働き方を手にしながら、半年でVPoEになるわけじゃないですか。それはどういうことだったんですか?
きっかけは当時のCTOから打診されたことです。定期的に1on1をしていたんですけど、「もう一回マネジメントをお願いしたい」と伝えられて。会社の状況としてそういう役割が必要だというのは話を聞いて理解していましたし、半年経って思い出もちょっと美化されていたところもあったので、やります、と。「もっとこうできたんじゃないか」と内省する時間もあったからだと思うんですけど、もう一回チャレンジしてみてもいいんじゃないかと思って。
自分の取説みたいなものも書いてましたよね。
VPoE READMEを書いたのは引き受けたあと、全社的に発表をするという話になったから。「あれ?(マネジメントを)やめたんじゃなかったっけ?」みたいな反応にもなるだろうし、エンジニアはともかく、それ以外の人からは「CTOもいるのに、そんなポジション必要?」といった声も上がると思っていたので。自分の役割を規定するようなことをやっておいた方が自分のためにもいいと思って、所信表明的にさっと書きました。
さっき「もっとこうできたんじゃないか」と言ったことの一つはまさにそこなんです。一人でできることは限られているわけで。「自分はここしかやりません」とまでは言わないですけど、「ここに責任を持つ」というのをもっとちゃんと宣言しておけば良かったなというのがあって。
書くことには輪郭をはっきりさせるところがあると思うんですが、実際にそうやって役割を言語化したことで、どんな変化がありました?
まずは文章に対するフィードバック自体もすごくあって、ちゃんと読んでくれているんだなと。「ここは頼っていいんだ」というようなことも、ある程度共通認識を持てた実感はありますね。自分の心持ちとしても「ここをやっていくんだ」「こういうスタンスでメンバーと接していくんだ」というのがはっきりしたので、やっぱり書いて良かったなと思います。
あのときどうすれば。毎夜繰り返すリベンジマッチ
お話を聞いていて、こにふぁーさんは一貫してすごく社外に意識が向いている方だなと思いました。特に「憧れ」「焦り」という言葉が何度も登場したのが印象的で。ある種、憧れ、そしてその裏返しとしての焦りが自分を突き動かす原動力になっている?
それはありますね。「こういう姿がかっこいい」とか、逆に「今の自分はそんなにかっこよくないな」とか。そういう美学というか、かっこよさみたいなものへの意識は常にあります。今だとHonoを作っているyusukebeさんとか。そういう本当に世界的に使われる何か、自分の作品みたいなものを持っている人への憧れがある。
それはエンジニアになる前からですか?
働き始めてからですかね。それまではそんなに真面目に何かに取り組むという感じではなかったので。ワークスのときもあまりなかったかな。ワークスの途中、元同期が起業して奇兵隊を始めたくらいで「外を見た方がいいのかな」と思い始めた気がします。それまでは社内のことしか見ていなかったから。
自分を向上させるために、ロールモデルを意図的に設定している感じでしょうか。
設定しているという自覚はあまりないです。というよりはたぶん、具体的な人をイメージしないといけない課題が常にあるからだと思う。Androidだったら「ライブラリを作らないとやりづらいな」「設計を気をつけないとダメだな」といった課題がまずあって、調べているうちに人の名前が見えてきて。その人の偉業みたいな話が芋蔓式に出てくるので「この人はすごいぞ!」となっていく。
常に苦しいことばかりなので。自分が苦しんでいる課題について、側から見ると乗り越えたように見える人の記事や登壇の動画を見たり、あるいは直接話を聞いてみたりしたときに「ちょっとこの人はかっこいいな」と思うことが多いです。


冒頭ではブログに関して「ソフトスキルやエモい話ばかりではカッコ悪いからハードな話も書いていきたい」というお話がありましたけど、どちらかといえば、こにふぁーさんはソフトスキルのことでバズっている印象が強い。それはそれでもちろん価値のあることだと思うんですが、とはいえ、プレイヤーとして技術力の高さやプロダクトで勝負するというのとはちょっと違うじゃないですか。その辺りは、ご自身としてどのような整理になっているんですか?
そうですね、そういうのがすごく得意なんだなと自分でも思います。そして、そういう得意な部分を伸ばしていった方がいいんだろうなというふうに、今はちょっと切り替わっているところがありますね。
高校のときはラグビーをやっていたんですけど、結構足が速かったんですよ。50メートル5秒台とか。でも、やっていたポジションはスクラムハーフで、スクラムを組んだときに真ん中でボールを投げる人。足の速さをフルに活かせてはいませんでした。たとえば一番外側の、ウイングと呼ばれるポジションを選んで、とにかく腿上げをやるとか、得意な部分を磨き上げていたらどうなっていただろうなと考えたこともありました。
そういう体験もあるので、今は得意なところをガリガリ伸ばすのもいいのかなと思って、振り切って考えるようになっていますね。
なるほど、そのお話を聞くとKyashでの現在のキャリアも腑に落ちるところがありますね。今回「執行役員VPoE」という大きな役職がついたわけですけど、振り返って「自分でもそれなりにやっていけるな」という実感を得られたのはどのタイミングでした?
ブログと直接は関係ないんですけど、DroidKaigiが2014年に始まって、2016年にそのカンファレンスのアプリを非公式で勝手に作ったことがあったんです。その後、それを公式にしましょうという話になり、200人近くの人がプルリクエストを出してコントリビュートしてくれて、というお祭りみたいになって。それがあったあとくらいですかね、Androidエンジニアとして少し成長を実感できたのは。
かつて憧れた存在に肩を並べた実感も?
どうなんだろう。うーん……。いや、でもちょっとはあるかもしれないです。肩を並べたというと恐れ多いですけど、努力を積み重ねれば何かしら前に進めるだろうという感覚は持てているのかな。
やはりブログやGitHubで何かしらの発信を続けていって、積み上がっている実感があるから。時間はかかるかもしれないけれど、本当の天才の中の天才みたいな人を除けば、少しずつ近づいていけるだろうと思っていますね。そういった積み重ねの実感がなかった昔は「とにかくすごいな」としか思っていなかったですけど。
そういう意味でも発信し続けたことが今につながっているんですね。最後に改めて聞くんですが、こにふぁーさんをそこまで発信に向かわせている動機ってなんなんでしょう。決してキャリアを築くためだけではないと思うんですけど。
「自分が正しい」という自信がないのが根っこのような気がしていますね。仕事をしていく中で、あるいは人とのコミュニケーションをとっていく中で、うまくいかないことがほぼ毎日のようにあって。その場、そのときには「こうすれば良かった」というのがわからない。だから家に帰ってよく考えてみて、「たぶんこうだろう」というところまでは行く……んですけど、でもそれが本当に合っているのかはやっぱりよくわからないじゃないですか。
ただ、それを世に出してみると反応が見られるので。「ああ、やっぱりたくさんの人がそう思うんだ」とか。一種の答え合わせみたいなことをして安心したいのかもしれないです。思考整理の一つの型として、自分には向いているのかな。人によっては物理的にノートに書いたりスライドで整理したりするのが得意という人もいると思いますけど、自分の場合は短い文章でざっと書いておくというのが向いている気がします。
なるほど。
別の言い方をすると、自分の感情の持っていきどころみたいな感じもありますね。うまくいかなくて悔しかったりとか、イライラしてしまったりということは当然いっぱいあるので。家に帰って、お風呂に入っているときとかに、どうすれば良かったのかとリベンジマッチのように反芻するんです。で、それを書いておくと、もうそういう怒りの感情はなくなるんですよ。供養できるというか。
誰かに嫌なことを言われたみたいなことがあったとして、でもそれは自分の以前の振る舞いや言葉によって引き出してしまった可能性もあるよな、とか。想定を広げて書いておくと「俺も悪かったしな」というように感情が安定する。ブログを書くことというのは今の自分にとって、感情を動かされてしまったときに一旦落ち着くための癖のような感じかもしれません。

