自分を追い込み“正解”を探し続けていた。海野弘成が辿り着いた、揺れながら生きる心地よさ
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取材・執筆 : 鈴木陸夫
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撮影 : 藤原 慶
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編集 : 友光だんご、荒田もも(Huuuu)
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「Qiita」創業者を経て、現在はnewmoで人生初のイチ社員として働く海野弘成さん。仕事と家庭、事業とものづくりの探求、経営者と会社員……さまざまな狭間での試行錯誤や揺れを経て気づいたのは、「正解にこだわらない」という価値観だった。
エンジニアリングに関する情報を記録・共有するサービス「Qiita」の生みの親、「やおっち」こと海野弘成さん。京都大学の学生だった2011年にサービスを開始し、順調にサービスを伸ばすが、2017年に自身が代表を務めていたIncrementsをエイチームに株式売却。グループ入りするもその後退社し、Qiitaから完全に離れることになる。
2度目の起業を経て、現在はライドシェア事業を運営するnewmoに入社。社会人人生で初めて社員になるという決断は、彼にとってどんな意味を持つのだろうか。
経営者として常に正しくあろうとした若者が、さまざまな試行錯誤を経て手にしたのは「正解にこだわらない」という価値観。理想の状態を定め切らず、刻々と変わる「今」に応じてチューニングし続ける姿勢は、エンジニアリングに通じるものにも映る。
プロフィール
- 海野弘成newmo ソフトウェアエンジニア、プロダクトマネージャー京都大学工学部情報学科卒業。2012年にプログラマのための技術情報共有サービス「Qiita」を運営するIncrementsを設立し代表取締役に就任。2017年にエイチームへ売却後、2019年に退任。2020年に習慣づくりをサポートするCoachatを設立したのち、2024年2月にライドシェア事業へ取り組むnewmoへ入社。ソフトウェアエンジニア、プロダクトマネージャーとしてサービス開発へ取り組む。
創業メンバーと袂を分かち感じた「経営者の孤独」
一般的には自ら役職を下げるケースはあまりないという中、20代を経営者として走ってきた海野さんがなぜイチ社員になるという選択をしたのか、実際に選択してみてどう感じているのかを聞いてみたいと思っています。ですがその前に、やはりQiitaのことを聞かないわけにはいかないなと。
初めて世に出したプロダクトへの思い入れは相当なものではないかと想像します。なぜ最終的に株式売却し、手放すに至ったのか、そのあたりの経緯から聞いてもいいですか?
Qiitaを運営していたIncrementsは、大学時代に起業のイベントで出会った友人二人と作った会社です。当時はコンピュータサイエンスと経営の両方に興味があって、大学としては情報系に進みましたが、卒業するくらいのタイミングでまたその友人たちと再会し、一緒にやりたいねという話になりました。
いろいろなアイデアを出していった中の一つが、Qiitaの原型になるようなプログラミングの課題解決をするサービスでした。最初はQ&Aという形で、プロトタイプ的にガッと作って出してみたのですが、あまり動きがなかったので少し形を変えて、今のブログに近いようなサービスにしました。
解決したい課題がまずあってというより、起業することありきだった?
そうですね、どちらかと言うと。ただ、サービスとしては自分が欲しいものでもありましたし、周りの人の役にも立つのではないかという考えはありました。その両面で作っていた感じです。
プロダクトを作ることだけでなく、会社を経営していく、ビジネスとして成立させていくことも当時から仲間と学び合っていたということでしょうか?
いや、そこまでではなかったです。イベントと言ったのはその当時流行っていたビジネスプランコンテストのことで、二人はその運営者、僕はその参加者でした。3泊4日の泊まり込みで、その間に事業計画の作り方やマーケティングの仕方などのレクチャーはありましたが、本当に基礎的なところだけ。
実際に会社をどう作るかとか、契約をどう結ぶのかといったことは、会社を作ったあとにやりながら学んでいくところが大きかったです。
2012年当時、エンジニア、かつ京大から起業した例はあまりない気がするのですが。
京大には全然いなかったですね。あとでマネーフォワードの辻さんが京大出身だと知りましたけど。ロールモデルみたいな人はいなかったです。
確たる見本もない中、実際に会社として動き出してみて、どうでした?
十数年前の話なので覚えている範囲ではありますけど、楽しかったですね。ただ、会社としてとか経営とかはあまり大きくは考えずに、どちらかと言えば、自分たちで作ったものが知らない人に使ってもらえているとか、その感想がTwitterに書かれているとか、そういう体験が面白かった記憶があります。
サービスの伸びとしては最初から順調だった?
ベンチマークなどはなかったので、なんとなくではありましたけど。でも少しずつ広がっている感覚はありましたし、たまにはてなブックマークやTwitterでバズったりもして、100人くらいが一気にコメントをつけてくれるといったところで盛り上がりを感じてはいました。
行き詰まりを感じたことはあまりなかったかもしれないです。自分たちにやれることを一つひとつやっていったという感じで。
しかし、そんな自分の会社を最終的には株式売却することになります。これはどういう決断だったんでしょうか?
ユーザーさんが投稿してくれて、その投稿を人が見にきて、登録が増えてというように、サービスとしてはずっと積み上がっていくモデルだったので、PVやユーザー数、投稿数はずっと伸び続けていたんですけど。それでどうお金を稼ぐのかというところが、サービスの規模や成長に比べて伸ばしきれなかったところがありました。
いろいろと模索しつつ、自分としてもはっきりと方針を示せずにフラフラしていた時期があって。そのあたりで人が辞めたりもして、自分も含めて、会社として成長している感覚を得づらくなっていきました。
ではどうするかというときに、もともと三人で創業して、ずっと役員三人体制でやっていたんですが、僕としては時間をかけてでもプラットフォームとして強くしていきたい思いが強かった。でも、二人は事業として伸ばすために、ある程度マネタイズに振り切った方がいいのではないかということで、意見が食い違って。それで二人が離れる形になりました。そこは気持ちとしてしんどかったですね。
それで、じゃあまた改めてボードメンバーを採用して経営陣を作っていく形をとるのか、それともどこかのグループに入ってがっつり強力な支援を得るのかという選択になったわけですが、結論としては、サポートしてもらう判断をし、売却に向けて動き出しました。それが売却した年の夏くらいです。
支援してもらう方を選んだ理由は?
どうなんだろう。ちょっと疲れていたのもあるかもしれないですね。人の問題で、サービスを作ることだったり、どう事業を伸ばすのかだったりになかなか自分の頭を使えない状況だったので。そこから改めて体制を作っていくのは難しいと感じていました。
それまでは経営陣三人で話し合って一つひとつの意思決定をしていく感じだったんですか?
基本的には議論しますが、意見が割れたときは、代表かつエンジニアである僕が一番利用者のことがわかるだろうということで、任せてくれていました。でもそのときははっきりと。サービスを作り始めてから数えると6〜7年経っていましたし、二人としてはこのペースだとしんどいと思ったんだと思います。
仕事と家庭、引き裂かれる心と身体
売却することへの葛藤は相当だったのではと想像するんですが。
いや、決めたらやるだけと思っていたところもあったので、そこは割り切れたというか。それよりも、やりきれなかったなとか、いろいろな人が期待して入ってくれたので、その期待に応えきれなかったなというのは……。今思い出しても込み上げてくるものがありますね。
もう少し早く事業としての継続性を作りにいく方向に振り切るか、もしくは逆に赤字前提で、とにかく10年単位のプロジェクトなのだと考えて経営体制を作っていく、どちらかに振り切っていたらまた違ったシナリオだったかもなという気持ちにはなります。
グループ入りすることで最終意思決定者ではなくなってしまう、自分が生み出したプロダクトが変わっていってしまうかもしれないことへの恐れや抵抗はありませんでしたか?
ありました。でも、グループ入りするにあたっては、雰囲気とか文化が合いそうかだったり、一定任せてもらえそうかだったりに関して、何十社とコミュニケーションをとっていたので。もちろん100%決め切れなくなる変化への不安は残りましたが、ある程度は大丈夫ではないかと思った上で決められたのはよかったです。
入ってみて実際はどうでした?
思っていたより自由にやらせてもらえたなという感じです。エイチームグループの場合は本社が名古屋で、我々は東京でやっていたので、物理的に離れているというのもあったと思いますが。それ以上にすごく尊重してもらえている感じというか、何かサポートの必要があったら入るよというスタンスで見てもらっていました。「グループとしてこういう方針だから、こうしてくれ」といったトップダウン的なものは全然なかったと思います。
けれども、その後2年で会社を辞めることになります。どんな理由と経緯だったんでしょうか?
そこは、自分だったり家族だったりの状況が変わったというか。住む場所を変えたり、子どもが生まれたりしたことで、出張でいろいろなところへ行くのが厳しくなってきたことが大きかったです。
仕事としては、当時Qiitaとして転職支援の事業をやろうとしていたので、その立ち上げまでやり切りたかったなという気持ちがありつつ。メンタル的な負担として、このまま続けていくのは難しそうだということで、相談させてもらいました。
仕事そのものというよりは、人生全体で考えての決断だった。
そうです。
プライベートの変化や、その当時感じていた難しさや辛さとはどういうものだったのか、もう少し詳しく伺うことはできますか?
会社を作ったのが20代半ばくらいで、そこからは完全に仕事オンリー。趣味の時間とか遊びの時間はなく、没頭し続けてきました。仕事が最高の趣味、最高の楽しさという感じ。それが楽しかったんです。
でも、結婚して子どもが生まれてとなると、そうもいかなくなってくる。それまでは土日も含めて常に仕事が最優先という生活でしたが、どうバランスをとっていくかという問題が持ち上がって、少しずつ難しさを感じていました。
エイチームグループに入ったことで、名古屋と東京を往復することにもなりましたし、グループ入りして少し経ったタイミングで長野に引っ越したんですよ。東京にも家を借りて、平日は単身赴任のような形で働いて、週末だけ長野の家族のもとに帰るという生活でした。
引っ越したのは家族の住環境や教育環境を考えてのことで、それはすごく良かったと思うんですけど。仕事とそれ以外の時間をどうやりくりするか、そういうところが難しくて、疲れがどんどん溜まっていったのではないかと思います。無茶だったなと思いますね、今振り返っても。
もっと家族との時間を過ごしたい思いもあった?
どう言ったらいいだろう。基本、仕事をするとか、何かを作るとかが好きなので。あとは本を読んだり。一人の時間も大事で、一方で家族と過ごす時間も作りたくてとなったときに、仕事や移動で疲れきった状態で子どもや家族と接すると、うまくできない、余裕がない自分がいるみたいな。その状態は良くないと思いつつも、うまく体が動かないというか、楽しく過ごせない。それで自己嫌悪に陥る。そういう状態になっていました。
noteを読むと、「夫としてこうあらねばならない」「父親としてこうあらねばならない」ということに縛られすぎていた側面もあったという話もありました。仕事でもそういうところが?
今はだいぶ楽になりましたけど、当時は。社長と言えばグイグイ引っ張っていくリーダーシップを発揮するものである、決断は早いものである、といった思い込みに縛られているところがあったと思います。
夫とか父親という面でも、本来は一緒に生活して毎日顔を合わせるべきなのに、それをやっていないというか、やれていない。自分の仕事の都合とかわがままで、ある種そこをおざなりにしている。やるべきことをやっていない。そういう感覚がありました。
空白の4ヶ月。喜びと焦り、ものづくりへの情熱
仕事に未練がありつつも会社を辞めたことで、社会人になって初めて無職の期間ができたわけですよね。この期間は海野さんにとってどういう時間でしたか?
4ヶ月くらいなので、期間としてはそう長くはないんですけど。何をしていたんだろうな。まあ自由に過ごしていました。読みたい本を読んだり、子どもと遊んだり。東京とも行き来していましたが、基本は長野で過ごしていました。
それまでずっと突っ走ってきて、4ヶ月とはいえそれが手元になくなるわけじゃないですか。社会との接点がなくなってしまった喪失感のようなものは?
喪失感はなかったですけど、4ヶ月後に「とりあえず法人だけ作って」とやったのは、今振り返ると、何かしなきゃ、何もしていないのは良くないんじゃないかという、先ほどの思い込みの話にも近い感覚があったのかもしれないです。何かやるべきものを持っておかねばという、喪失感というよりは切迫感から動いてしまっていたなと。
会社を作った時点では「こういう事業をやっていく」というものがまだない状態だった?
ぼんやりとはありました。ただ、それも今振り返ると、いきなり会社にしなくてもいろいろなやり方があったんじゃないかと思います。社会的な立場がない状態の居心地の悪さを感じていた気がします。
一方で家族との時間やその喜びは感じていた?
それはありました。一緒に過ごしたり、パスタやカレー作りにハマって毎日料理をしたり、それまではできなかった過ごし方ができたと思う。いい変化でしたね。
新しい会社Coachatで始めたのは習慣に関するサービスでした。とても重要なテーマですし、エンジニアっぽいなと思うんですが、そのアイデアはどこから生まれたんですか?
Qiitaをやっているあいだに気持ち的にも大変な時期があったわけですけど、その中でもどう自分をいい状態に保つか、いかに余裕のある健全な状態で仕事をするかと考えて、ジムに通い始めました。
それまでまったく運動をしてこなかったんですが、精神面にわかりやすくポジティブに働いたり、続けていくと疲れにくく、夕方まで集中力が続くようになるという体力的な変化を感じたりもして、自分自身すごく救われたところがあって。けれども一方で、そこに至るまでによく三日坊主になっていて、続けるのが難しかった。
いろいろと試行錯誤したり本を読んだりする中で、たとえば「小さく始めた方がいい」とか「とりあえず楽なものからやるのがいい」とか「きちんと成長を実感できるようにした方がいい」など、習慣化するのにはいろいろなノウハウがあるのを知って。そのあたりのことをただ単に情報として出すのではなく、実際にインストールする、定着するところまでサポートするものが何かあったらいいのではないかと、ぼんやりと思ったんですよね。
それをソフトウェア的なアプローチと、当時コーチングを月一ペースでずっと受けていたので、人も一緒に関わることで、行動変容や習慣化をサポートできるのではないか、その組み合わせで事業を作れたら面白いのではないかというのが、最初に考えていたことです。
最初は一人でスタート?
そうです。
働き方としてもそれまでとはかなり違う?
違いますね。仕事をしていたと言っていいのかなという感じです。仕事というよりは、どちらかと言うと研究っぽい。いろいろな本や論文を読んだり、試しにプロトタイプを作ってみたりというのを一人でしていて。
途中でアルバイトとして「一緒にやりたい」という人が来てくれたり、Qiitaでデザインをやってくれていたメンバーを巻き込んだりしてやっていたんですが、フルリモートだし、ソフトウェアだけではないプロダクトだったので、作り方自体も模索して、という時期が長かったです。
その働き方や感覚はQiitaを最初に立ち上げた学生の頃と近いものですか?それともまた別?
別ですね、完全に。Qiitaのときは「こういう機能が欲しい」「こういうふうに使いたい」というアイデアをヒアリングなどを通じて得た上で、それを具現化していく形でした。小さく設定して走るみたいなことをずっとやっていたと思います。
一方で習慣づくりのCoachatという会社でやっていたのは、幅広く探索し続けるという感じ。実装よりも前の、企画というか構想を練るところにかなり時間を使っていました。
習慣が身につくか、行動が変わるかというところがわかるまでには時間がかかりますし、ソフトウェアみたいにわかりやすい「動く・動かない」がない。そういう意味ではアプローチとしてだいぶ違ったなと思います。
ある種正解かどうかわからないまま動かしていかないといけないわけですよね。この時期はどうだったんですか。楽しかったのか、それとも新しいことの難しさや苦しさが強かったのか。
両方入り混じっている感じですね。新しいことを知れるとか、新しい価値観・考え方に触れられるという楽しさもあれば、わかりやすい手応えを得にくかったり、やってきていないもの、新しい領域に手を入れていくことの難しさも感じていました。
テーマ自体に迷いはなかったんでしょうか。というのも、音楽でも自分の人生のすべてを注いだファーストアルバムがヒットしたあと、セカンドでコケるというのが「あるある」じゃないですか。そういう意味では「Qiitaの次」にあたるこのプロジェクトに関して、どう感じていましたか?
答えるのがなかなか難しいですけど、その時期は先ほど話したような「会社も自分も成長し続けねば」といった決めつけから逃れることができた時期でもあったと思うんです。事業とか会社という意味ではうまく成立させられませんでしたが、探索・探求の時期としてはすごく得るものが多かったと思います。
習慣づくりという領域は曖昧と言えば曖昧なので、心理学的なものとか、行動分析科学とか、運動、身体、健康と、幅広く探索しようと思えばいくらでも探索できる。いろいろな人がいて、いろいろな価値観があるから、習慣づくりの方法も一つではない、というところから、ちょっとジェンダーの領域に踏み出してみたり。西洋・東洋の価値観の違いに触れてみたりもしました。
あとは即興演劇のようなものに一時期ハマっていたんです。そこから、いわゆる工場生産的に画一的なものを作るのではなく、一人ひとりが作る作品というようなものの考え方に興味関心を持って、ハマったりといったこともあったので。
まとまりはないですが、そういう形でいろいろなところに手を出せて良かったと感じます。それを実際にサービスとして、価値として打ち出すというところまではいきませんでしたが。耕しているみたいな期間でしたね。
そこから研究自体が楽しい、大学院へ行こうという発想にはならなかった?
ああ、それは一時期考えました。京大の院へ行くと面白そうなのがあるな、とか。でもやっぱり何かしらモノを作って、たとえばソフトウェアだったりを作って、ちょっと語弊があるかもしれないですけど、それを自分の作品としたいというか。
自分なりの価値観とか考えを込めたものを作って、それによっていろいろな人の課題を解決するとか、ちょっと生活を良くするとか、何かしら感情を動かすとかいったことをしたい思いがあったので。そこは軸としてはソフトウェア。経験としてもそうですし、好きなもの、そこに戻ってきた感じです。
今、そこにある祭りに身を投じる
自分自身を込めた作品を世に問うのは、それを否定されたりうまくいかなかったりすると自分自身を否定したような気持ちになりませんか。だからこそ得られる喜びも大きいとは思うのですが。そういうリスクへの恐ろしさや思うところはないですか?
思うところがないわけではないですけど、自分の作るものに関しては、便利さとか、道具としての良さのようなところを何かしら入れると思うので。否定し難いサービスの効能があるので、まだ大丈夫かなと。ピュアなアート作品だと、おそらくシンプルに良いと感じたか感じなかったかでジャッジされると思いますが。
即興演劇についてはnoteでも触れていました。改めて即興演劇との出会いがもたらしたものを伺ってもいいですか?
影響として一番大きかったのは「正解・間違い」がないという世界観に触れたことですね。表現の世界は評価のルールがシンプルで、自分のものを出し切ったか、自分としてやり切れたかというところだけ。その価値観・世界観に触れてハッとしました。
基本は「うまくいった・いかなかった」の2軸ですべてを評価し続けてきていたので。たとえば「この機能はうまくいっているのか」「この変更は良かったのか悪かったのか」というところを定性的、定量的に常にジャッジし続けてきた。
でも、それだとある種、作った人はどうでもいいとなりやすいというか。「成果を出した人・出せなかった人」になってしまうと思うんです。インプロだと、その人ならではの持ち味や、ともすると失敗っぽく見えることも含めて価値になるみたいなことが起きていて。
いや、価値と表現するとまたニュアンスが違ってしまうんですけど。そういう豊かさとか、あるいは思いっきり感情を出せたりするところとかも。仕事となると感情は抑えるべきもの、何かしらネガティブなものとして扱われますけど、逆にそれこそが最上段の大事なことという世界観だったので。そこは大きかったです。
ちなみに即興演劇とはどのようにして出会ったんですか?もともと興味があった?
もともとは全然だったんですが、習慣づくりを一緒にやっていたメンバーが「おすすめだよ、気に入ると思うよ」といって動画と本を送ってくれて。それがめちゃくちゃ刺さったんです。その彼女はよくそういうハッとさせられるようなものを送ってくれるんですよ。素晴らしい人です。
付き合いは長いんですか?
今回の事業で新たに出会いました。「興味ある人いませんか」とTwitterで投げかけたら見つけてくれて。彼女との出会いも、Coachatをやっていたことに意味があったなと思えることの一つですね。
確たる正解がない世界は素晴らしいと思いつつ、それまでフィードバックを得て改善のサイクルを回す仕事をしてきた人からすると、どうすればいいの?となる気もするんですが。
それもあるかもしれないですね。どうなんだろう。難しいな。
でも、スポーツとかだとわかりやすく勝敗が決まるけれど、負けたチームに何も価値がないかと言えば、そこにもドラマがあるじゃないですか。だから同じものでも見方によって見え方は変わるというか。それをどう融合させていったらいいのかは正直僕もわからないところがありますけど。
どちらを重視したいかとか、自分個人としてどちらに軸足を置きたいかというのもあると思うんです。今の僕としては、少なくとも数字とか便利さ以外のところで何ができるかに軸足を置きたい気持ちが強くなっている。それこそ今いるnewmoという会社は「移動で地域をカラフルに」というミッションを掲げているんですけど、この「カラフル」というところにも現れているというか。
ちょうどnewmoの話をしていただいたのでそちらの話題に移りたいと思うんですが、どうしてnewmoの社員になるという決断を?
直接のきっかけは、昨年の11月に創業者の一人であるCTOの曽川景介さんに誘ってもらったことです。彼は大学時代の先輩で、もともと知り合いだったんですけど、「ライドシェアのことをやろうとしている」「これから日本でドアが開くかもしれない」「会社を辞めて起業しようと思っている」と。その話を聞いて、今しかできない、なおかつすごくインパクトのあるチャレンジだなと思い、興味を持ちました。
Coachatを事業として成立させるのがなかなか難しいと思い、会社として閉じる方向にしたのが昨年の夏くらい。一方でちょうどその頃、LLMとかChatGPTの世間的な盛り上がりを見ていて、今後どんな事業にチャレンジするのであっても絶対に欠かせないだろうということで、大学の講義動画を毎日見るといった生活をしていました。
実際、そっちの領域で業務委託として少し仕事を受けたりもしていたんですけど。でも、具体的に「こういう事業をやりたい」という考えはなかったので、であれば目の前に見えている、かついろいろなご縁があって面白い話があるのであれば、そこに飛び込んでみようと思って決めました。
社員という立場に関してはあまり特別なことはなかったですね。「ああ、社員だなあ」というくらいで。
今しかできない、面白そうと感じた要素をもう少し詳しく聞きたいです。
一番大きかったのは曽川さんといずれ仕事がしてみたいと思っていたことですね。いつも事業だったり技術だったりに関して目を輝かせながら喋る人で。そのときもすごく楽しそうに、ライドシェアがいかに楽しいかとか、どんな広がりがあるものなのかを語っていました。
今でこそ日本でも少しライドシェアが始まりましたが、当時はまだ始まるかどうかもわからないタイミング。それでも、どんな形であっても全力で、面白い人たちと突っ込めたら、いい思い出と言ったら変ですけど、人生におけるいいイベントになると思ったのが大きいです。
先ほど「インパクトが大きい」という話もしましたけど、どちらかと言えば「この人とであれば、思い切り楽しめそうだな」と思えたのが一番の決め手。お祭りっぽい感覚というか。懸念やリスクはありつつも、でも後悔しないだろうな、どうにかできるだろうなというのが根っこにあったからこそ決められた感じです。
お祭り……失礼ながらパーティー人間には見えないんですが。
あはは、パーティー人間では全然ないですけど。
「この祭りに首を突っ込まなければ損だ!」みたいな人生の意思決定の仕方は、海野さんにとっては通常モードなんですか?それとも今はそういう心持ちだということ?
以前はそういうノリではなかったかもしれないですね。即興演劇とか、そういうものに触れて変わっていったのかもしれない。どちらかと言うとロジカルに考える方だったとは思うので。「刹那的」と言うとまた変なニュアンスが入ってしまいますが。先ほどは「縁」という言葉も使いましたけど、「今このときしかない!」というタイミングとか、そういうものをより重視するようになってきている気はします。
人生はチューニング
newmoではどんな立場で、どんな業務を?
入社したタイミングではバックエンドエンジニアとしてプログラミングをする立場でしたが、8月に役割が変わって、現在は配車側、タクシーを呼ぶ側のアプリのプロダクトマネージャーをやっています。
チームの規模は?
会社全体が50人くらいで、プロダクトチームとしては半分強の25〜30人くらい。横断的なメンバーも多いのではっきり何人とは言いにくいんですが、配車のアプリとしては15〜20人。「ワンチームだとだいぶ厳しくなってきたね」という話をしているところです。
社長として率いていたときの組織とそんなに変わらない規模ですかね。
そうですね。Qiitaも最後は30人弱くらいだったので。全社としてはもう超えていますね。
社員ということに特別な実感はないとのことでしたが、働いていて今感じていることは?また忙しくなったのでは。
そうですね。でも忙しく全力を尽くせているという感じがあって、充実感がある状態が続いています。それがいいなと思いますね。代表でない立場だと、自分では決めきれなかったりというもどかしさも感じつつ。一方で幅広い職能の人が集まっているので、これだけの人が集まっているからこそできることがあるというのも感じています。
「決めきれないもどかしさ」はやはりあるんですね。
もどかしい、早く決めてほしいという不満的なものも正直あります。逆に言うと、以前の自分は代表という立場ゆえに下駄を履かせてもらっていたんだなと。話を聞いてもらいやすかったですし、言語化できていなかったり非合理なジャッジだったりしても、受け入れてもらいやすかった。感覚的に決められたところがあると思っています。
正社員になると、いかに説明責任を果たすかとか、コミュニケーションで人を巻き込んでいくかとか、そういうところへのエネルギーが必要なんだなというのは、立場が変わって感じているところです。
逆にプラスの側面は?
楽だなと思うのは、考える範囲を限定してもいいというところ。前はあらゆるケースを考えるのが当然で、「考えてません」は言い訳にならない立場でしたが、今は「この部分はこの人に任せる」ということができる。その「任せる」も「見守る」ではなく、完全に丸投げできてしまう。とはいえ、気になって結局手を出してしまうこともあるんですけど。「自分の範囲はここです」と一定割り切れるところは楽だなと思います。
仮にこの先、どこかのタイミングでnewmoを卒業することになったとして、次は正社員ですか?それとも再び起業する?
うーん、両方見た上で、多分起業したいと考える気はします。楽だなという話はしましたが、一方で責任を持ちきれないもどかしさは、やはり強く感じ続けているので。振り返ると、最終責任を持つ立場ゆえのヒリヒリ感は自分にとって大きかったなと思います。自分の力を最大限引き出せるのはその立場だなという感覚があります。
Qiita時代もCoachat時代も、プロダクトを伸ばしていくところプラス、それをビジネスとして伸ばしていくところではうまくいかないことも経験されたと思うんですが、そこは今、海野さんの中でどういう整理になっていますか。今後起業するとなると当然そことも向き合うことになると思うのですが。
そうですね。プロダクトと言ったときに、かつてはユーザーに価値を提供するとか課題解決するといったことだけを考えていたけれど、持続的に収益が上がるモデルも組み込んだ上で設計することが本当に大事なんだなと感じるようになりましたね。
便利だとか快適だというところだけしか見れていなかったけれど、その一段上、たとえばどんな人が、どんなモチベーションでお金を払うのかといったことまで組み込むというか。もしくはそこはまったく切り離して、それはそれとして別のところでなんとかする、とか。
どちらにしても「お金のことは後からついてくる」というのでは、やはり難しいんだなというのが学びですね。当たり前と言えば当たり前のことかもしれないですけど。
そこを自分の手で設計することにもう一度チャレンジしたい思いがある。
そうですね。「そこは専門領域じゃない」というのは違うなと感じたので。
お話を伺ってきて、海野さんは働き方も私生活もいろいろと試行錯誤しながら、ご自身にとって心地よい方向に組み立ててきているように感じました。現時点で考える理想の働き方、理想の私生活をあえて言葉にしていただくとすると、どうなりますか?
いや、まさに今おっしゃっていただいた「試行錯誤」が、自分にとってかなり大きいテーマというか、キーワードです。Coachatというサービスを設計する上でも、いかに試行錯誤しやすくするか、たとえば選択肢を幅広く出すとか、本人の「こんなのはダメだ」という思い込みを外すとか、そういうことを念頭に置いて作っていたので。それは自分自身の生活にも共通する点ですね。
理想のあり方をカチッと決めるというよりは、「そっちの方が心地いいな」「やりやすいな」「無駄がないな」というものをちょっとずつ取り入れたり、逆に捨てたり、試したりし続けられる状態が一番いいなと思います。極端に言えば、その日その日に合わせて。
たとえば、今僕はちょっと喉の調子が悪いんですけど、調子が悪いなら悪いなりに、そのときに合うような働き方や過ごし方をどう設計するかと考えるのが好きなので。ひたすらチューニングし続ける。チューニングとか試行錯誤ができる環境が、自分にとって一番理想的というか、快適だなと思います。生活や住む場所に関してもそうです。振り返ると、結構激しめの試行錯誤ではありましたけどね。