「化け物ハッカー」にはなれない、と気づいた先に。新多真琴が自分を認められるまで
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取材・執筆 : 鈴木陸夫
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撮影 : 藤原 慶
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編集 : 友光だんご、荒田もも(Huuuu)
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人生の選択において逃れられない、自己との対話。“化け物”のようなスーパーハッカーに囲まれた新卒時代、新多真琴さんが自ら陥ったのは「ハッカーかくあるべし」の呪いだった。「自分を映す鏡」を磨き続け、虚像から解き放たれるまでの彼女の10年を追う。
「あらたま」こと新多真琴さんが2023年3月のYAPCで行った講演「あの日ハッカーに憧れた自分が、『ハッカーの呪縛』から解き放たれるまで」は大きな反響を呼んだ。新卒で入社したDeNA時代に自らにかけた「ハッカーの呪い」とはなんだったのか。自身のキャリアを振り返ることを通じてエンジニアとして「技術で突き抜ける」以外の道を示す内容に、救われる思いをした人が多かったようだ。
DeNA退社後は二つの企業を経て、Cake.jpで若くしてCTOを経験。現在はLayerXでエンジニアリングマネージャーを務めている。音大卒で、プログラミングを学び始めたのは大学生になってから。ユニークなキャリアからメディア出演の機会も多く、自分を客観視している印象の新多さんだが、キャリア初期は「自分を見る鏡が磨かれていなすぎて、虚像を見ていた気がする」という。
理想のキャリアを歩むには、周りからの評価や期待を正確に把握することと同じかそれ以上に、自分自身についての深い理解が必要だろう。「自分を映す鏡」はいかにして磨かれ得るのだろうか。
プロフィール
- 新多真琴LayerX エンジニアリングマネージャー国立音楽大学を卒業後、DeNAでソフトウェアエンジニアとしてキャリアをスタート。その後はセオ商事、ロコガイドを経て、Cake.jpにて執行役員CTOを務めた。現在はLayerXにて「バクラク申請・経費精算」のEMを担いつつ、コミュニティ「EMゆるミートアップ」カンファレンス「EMConf JP」を運営している。
「仮想敵」が強すぎた新卒時代
自己分析がお得意で、ご自身を客観視していらっしゃるなという印象なんですが、それは昔からですか?
ここ6、7年くらいが特に顕著だと思います。以前はもっとぼんやり生きてました。紆余曲折を経て、自分とちゃんと向き合った方が自分にとってもいい人生にできるし、関わる人に対してもいいものを渡せると気づく瞬間があったので。それで自分なりにいろいろとやっていたら、「そういう振り返り方いいよね」「どうやってるの?」と聞いてもらえるようになって。それで今があるという感じです。
どんなきっかけが?
遡ると、以前いた会社で思ったほど評価されないなと感じていたことがあって。すごく頑張って、それなりにプロダクトにいい影響を与えたはずの機能に携わって、しっかりとアウトプットを出しているのに、意外と評価されないなと思ったんです。
でも「結果を出していれば、評価は後からついてくるでしょ」というのはすごく傲慢な物言いで。評価する側がどう評価したらいいのかを判断するための材料まで含めて渡すことが、被評価者としての義務だと気づいたタイミングがありました。
それからは「期が締まるまでにここまで打ち上げます」という宣言をして、月ごとに振り返りつつ、実際に期が締まるタイミングで「もともと言っていたところにこれくらいオンしました」「あとこのくらいでした」「この部分はこういう評価になりますよね」というところまでまとめて渡すようにした。そうしたら結果がついてくるようになって。ああ、こういう方向でやっていけばいいのかと気づいたことはあったかもしれないです。
それは人に聞いて見つけたという感じなんですか?
本を読んだような気もします。今振り返ると、当時の私からはマネージャーの動きがちゃんと見えていなくて、「もっとこういうところまでカバーしてほしい」と勝手にモヤモヤしていた状態だったと思うんですけど。
それをVPoEに相談したら「いうても、あらたまさんはマネージャーという仕事をたいして知らなくない?」と言われて、ああ、そうだなと。そこからマネージャーとはなんぞやみたいなことを調べ出しました。本を読んだり、メンバーレイヤーでもできそうなマネジメントスキルとかリーダーシップを発揮しようとやってみたり。その過程で、という感じです。
ひとつ視座が上がったというか。
結果として。
「上からはこういうふうに見えているのか」とわかってきた感じ?
評価者も大変だよね、と。自分でできるところまではやり切った上で、あとはパススルーするだけという状況を作ってあげた方がどっちにとってもいいな、というようなことを考えて、動いて、意外とうまくいって。マネージャーからの信頼され度合いが上がったと感じる部分もありました。組織の中での自分の振る舞い方、チームに対していい影響を与えるためにまず自分をどう整えるかみたいなところは、そこで学んだ気がします。
でも、それが早いですよね。「評価されないな」とか、マネージャー側の評価基準に不満を持つところまではよく起きるけれども、そこからマネージャーの視点に立って学ぼうとなるのは稀有な気がします。学ぶこと、知ることがもともと好き?
好きだと思う。波はありますが、押し並べて(本を)読んでいる方だと思います。
というのと、DeNA時代の新卒2、3年目のときに下の代のメンターをやることになったんですけど、全然うまくいかなかったんですよ。ずっと新卒さんに「正論パンチ」しまくって、お互い険悪みたいな。
自己肯定感も全然なかったので、自分のできることはみんなもできることと思ってしまっていたんです。その尺度で話してしまうと、特に新卒だし、何もできない、わからない。「なんでこんなこともできないの?」みたいなことを言ってしまって、なかなかうまく行かないなというのをずっと感じていました。
(当時のVPoEに)「たいして知らなくない?」と言われて、マネジメントに関して改めてインプットし始めたくらいのタイミングで、初めてそのときに抱えた傷みたいなのを自分でちゃんと解釈して、落とし込めるようになったというか。「あのときこうしていればよかったのだな」と気づけたことは、ひとつきっかけとしてあるかなと思います。だいぶ時間がかかりましたけど。
一般的に言っても、3年目で人を見るのは大変ですよね。
特にDeNA時代のあの環境には、「化け物」がいっぱいいたので。ずっと一番下だと思っていました。何をやっても。実際はそれなりに働いていたと思うんです。評価もされていたし。でもそれを客観的にキャッチできていなかったという感じがします。
自分の中のイメージとギャップがあった?
技術的に突き抜けていないといけない、と。
周りには突き抜けた人たちがいっぱいいるわけです。彼らを見て、何かを捨てることなく差を縮めようとするんだけど、全然縮まらないみたいな。周りからしたら別に突き抜けることなんて私には求めていなくて、むしろプロジェクトを前に進めるであったり周りを巻き込むであったり、今振り返ると、何とかして物事をうまく行かせる力があるという評価をされていたと思います。
でも当時は「そんなものはやったら誰でもできるじゃん」みたいに思っていたんです。なので、自分が憧れている人みたいにはなれないし、そういうプロジェクトマネジメントみたいなことを任されるのは、たいして期待されていないからだろうと思っていました。だいぶひねくれていましたね。
時代もあるとは思うんですけど、なぜそこまで職人タイプに憧れていたんですか?
ひとかどの人間になりたかったんでしょうね。それがいいとされる価値観だったんです。YAPCというPerlハッカーのカンファレンスがあるんですけど、そこでいいねとされる人たちはやっぱり技術的に頭一つ抜けていました。世の中を文字通り技術で変えにいっている人たちだったので。
私もそういう人たちに憧れてDeNAに入社を決めて、ハッカー集団がいる部署に絶対に行きたい、と。「卒業して配属研修を終えて、もしそこに配属されなかったら辞めます」くらいのことを言っていたんです。そうしてもぎ取ったと思っている状態なので、当然自分もそうなりたいと思っている。でもなれなくて、苦しい、みたいな。
実際はそういう尖った人たちばかりいてもチームとしては機能しなくて、まとめる人、間をつなぐ人もやっぱり必要ですよね。オーケストラの指揮者みたいな。自分はそのポジションができていたと思うんですけど、そこがチームに足りていないとも思っていなかったんです。
(そのポジションの重要性は)全然わかっていなかった。なにやらありがたがられている、なにやら評価されているらしいことはわかるんですけど。それは自分の実力がないからだ、というのが結構長く続きました。それは退職してからもずっとです。
最近はエンジニアの業界でも「職人が偉い」みたいな風潮はだいぶ弱まってきていると思うんですけど、あらたまさんは純度の高い場所にいたから、年齢の割にちょっと上の世代の価値観が強かったのかもしれないですね。
でも同年代の仲間でも技術で頭角を表している人はいるので。そういう姿を見てしまうと、翻って自分はみたいに思ってしまう。仮想敵が強すぎたんです。
ピアノじゃ食えない。さてどうする?
遡ると、もともとはピアノをやっていたんですよね?
高校はピアノ専攻、大学は作曲専攻です。ピアノは幼稚園から始めて、中学では合唱部で伴奏をやっていました。(音楽は)それこそ自分のアイデンティティでした。学校に一人とか学年に一人、ピアノが上手い人がいるじゃないですか。あれだったので。
小学校のときのピアノの先生に「あなたいいわね」「音大附属に行きなさい」と言われて、調子に乗って「絶対に音大に行く!」と言ってしまって。本当は中学から附属に行きたかったんですけど、親に「高校からにしてくれ」と言われ、しょうがないなと言って一般の中学へ行って。なので進路を決めるときは何も考えていなかったです。基本的に演奏系はついた先生と同じ系列の学校へ行くものなので「国立音大、以上」という感じ。
「普通科って普通の人が行くところでしょ?」とか言っていたらしいです、当時の私は。本当にひどい。「私はピアノで行く!」と信じてました。たいしてうまくもないのに。
ファーストピアノ体験は?
幼稚園のとき。私自身は覚えていないので母から聞いた話ですけど、おもちゃのピアノをめちゃくちゃな指づかいで触り始めたから「多少なりとも通わせておいた方がいい」と親が判断して、入れてくれたらしいです。教室はまあ楽しく通ってました。
その後長く続けたということは、夢中にさせる何かがあったんでしょうね。
なんで続けていたんだろう。他にもいろいろと習いごとはやっていたんですけど、最終的にはやめてしまって、続いたのはピアノだけに。
楽しかったから?
あまり楽しい思い出もないんですよね。なぜ続けていたのかもわからない。
大人になってなにかに熟達しようと思ったら、すごく創意工夫してやろうとするじゃないですか。PDCAを回すというか。でも当時はそれがなかったので。とにかく言われたことをやるだけ。言われたことをやって、弾けるようになって、楽しい、また次の曲に行く、とやっていただけで。たとえば自分でピアノCDを買ってきて「次はこれがやりたいです!」ということもなかった。
本当にどこにでもいる普通の「ピアノが弾けるやつ」みたいな感じでした。だから今となっては何にこだわっていたのかもわからない。親が褒めてくれたから、とかもあるんですかね。
ピアノをやっていて一番楽しかった瞬間は?
みんなで一緒にやっているときが一番楽しいというのは、中学に入って気づけた、一番よかったことです。むしろ、ソロは嫌いだなとも思いました。高校のときについてもらっていた先生にも「ソロを弾いているときより伴奏を弾いているときの方がめちゃくちゃ楽しそう」と言われて、そうなんだ、みたいな。
その頃まではピアノで食べて行こうと思っていた?
高校2年くらいまでは思っていたんですけど、入学した頃からだんだんと陰りが見え始めていて。
どういうことかというと、「学校に一人いる上手い奴」が全員集まるのが音大なので。どんなによく見積もっても「中の上」くらいに思えてしまう。例えばお母さんもおばあちゃんも音大出身の人だったり、家へ帰ると夕ご飯の時間まで防音室でずっと練習していたり、そういう子たちがたくさんいて、めちゃくちゃピアノも上手いんですよね。どう頑張ってもその子たちのようには弾けないなと悟ってしまった。
それで初めて今後の人生について考え始めました。音楽では食っていけないのではないか。このままピアノを修め続けたとして、ヤマハの先生になりたいわけでもないし。「ピアノじゃないかも」と思ってしまった。
なんですけど、そのときすでに高2高3なので、他大を受験するには遅すぎるんですよ。今思えばAO入試とかあるじゃんとか思うんですけど。そういう情報収集ができるだけの力もなかったので。
で、附属からそのまま上がった大学で何か面白そうな学科はないかと思ったときに、コンピュータを使って作曲する学科があるぞ、と。パソコンが好きだったのと、唯一就職率についての言及があって。その頃には完全にお金を稼ぐモードになっていて、「ここにいけば食いっぱぐれることはなさそう」という邪な気持ちもあり、受けて、どうにか滑り込んで、そのまま音大へ行きました。
高校生で稼ぐことを考えるのもまた早い気がするんですが。
食いっぱぐれたくない気持ちがあったというか、将来をイメージしたかったのかもしれないです、多少なりとも。ああ、でもネガティブな方から言ってしまいましたけど、「面白そうだったから飛びついた」という方が実際の感覚に近かったです。
パソコンが好きだったというのは?
小学生時代はホームページビルダーをいじり、中学ではCGIチャットにハマりという、その年代らしいパソコンの使い方をしてました。当時家にパソコンがあったティーンはだいたいそういう生活をしていたのでは。ADSLが普及して、やっと常時接続ができるようになったくらいなので。
共用ですけど自由に使えるパソコンが家にあって。「趣味きっかけで顔の知らない友だちができるって楽しい!」とか。ちょうどボカロが流行り出した頃で、作曲の授業が本当に嫌い、苦手だったので、ボカロでみんなが曲を作って上げてるのを見て「なんでみんなこんなにできるんだろう」とか思ってました。
あれ? でも大学では作曲専攻とおっしゃってましたよね?
そうなんですよ。逆張りをしすぎて。やはり苦しい思いをしました。辛かった。創作センスもない、ピアノも弾けないみたいな、どうしようという感じに若干なってました。それで辿り着いたのがプログラミングだったんです。
コンピュータ音楽専修というのが正式名称なんですけど、コンピュータ技術の発展とともにできるようになった表現を取り入れて、音楽創作の新しい姿を模索する学科。たとえば音響処理で、スペクトル分析をしてある周波数帯だけブーストしてみると、普通のフルートとは違って聞こえる。この音質を使って曲を作ってみよう、とかそういうことをやる。
そこで使うソフトウェアの中にプログラミング技術があるとより高度なことができるツールがあって。その基礎科目としてプログラミング、C言語の授業があり、「ちょっと面白いかもしれない」と思っていたら、周りは軒並みぐったりしていて「あれ、楽しいと思うのは私だけ?」みたいな。そこで初めて「人よりもちょっとできる」というものが見つかって、そこからクリエイティブコーディングに走り始めたのがプログラミングにのめり込んだきっかけです。
卒業制作ではアプリを作ったんですよね。
はい、音大の卒制に音の出ないアプリを提出するという暴挙を。4年にもなると就職先も決まっていて、自分の興味はそっちに向いている状態。でも卒制は何か出さないといけない。何を作ったらいいかと考えていたときに、それとはまったく別軸で友人二人と作ってみたいアプリの話が持ち上がって、「ああ、これを卒制にしちゃえばいいじゃん」と。だから理由は後付けででっち上げて。どういう理屈だったかも覚えてないです。
先生からの評価は?
「一応ここ音大なんだけど?」と苦言を呈されましたね。でもそれで卒業させてもらえたので。とても懐の深い学科だったな、本当に恵まれたなと思います。感謝しかないです。
飛びついた先にフロンティアがあった
学生時代からGoogleやカヤックなどにインターンに行っていたんですよね。
行っていましたね。あとは学生スタートアップで働いたりとかも。1年の真ん中頃にはもうプログラミングにハマっていて。当時はまだサイネージがFlashで動いている時代だったので、先輩の紹介で、サイネージを作るお仕事の手伝いをさせてもらったりしていました。その先輩がカヤックとつながり、「気になる会社って言ってなかった?」と声をかけてもらい、打ち合わせについて行ったその場で「インターンさせてください!」と直談判しました。
なかなかアグレッシブですね。
ですよね。でも、たまたまご縁があったからですよ。なにもない状態であれば、いきなり電話をして「ここで働かせてください!」とはおそらくやっていなかったと思います。ちなみにインターン時のメンターが2社目(セオ商事)の社長の瀬尾さんです。だから本当にご縁に生かされているなと。
インターンは楽しかったですか?
楽しかったですね。3ヶ月やってみたところで、一応多少なりとも戦力になっていそう、と思って「バイトに切り替えてくれませんか」とお願いをしてみたら、それが通って。
そこでエンジニアとして働くイメージが明確にわいたのと、どうやらエンジニアとして就職すればそれなりに給料をもらえるらしいというのを後で知り。じゃあ就活はエンジニア一本で、と思ったのかな。
次のステージが見えた。
飛びついた先に運良くフロンティアがありました。
新卒でDeNAを選んだのは?
これも運というかタイミングで。カヤックのインターンでお世話になった社員さんが「こんなイベントがあるから良かったらおいで」と誘ってくれたのがYAPCで。その年の基調講演として出ていたのが当時DeNAで尖った人たちをまとめるマネージャーをしていたhidekさん(木村秀夫さん)だったんです。hidekさんの話を聞いて「この会社だったら自分も成長できるのではないか」「ここに行きたい!」となりました。
講演のどこが刺さったんですか?
うちにはこんなにすごいハッカーたちがいるんだけど、朝まともに起きてこない。そんなハッカーたちとうまくやっていくのにいろいろと苦労しているといった冗談を交えつつも、どういうチームでやっているのか、どういう課題に向き合っているのかといったお話しだったと思います。
当時の私は彼らのなにがどうすごいのかを100%理解できていなかったと思うんですけど、とにかくかっこいいなという感想を持って。ここで憧れが強く形成されてしまったばかりに、この先10年悩まされるんですが。
伺っていると、ピアノだったり作曲だったり、ハッカーとして突き抜けることだったり、何回かの挫折があって今のキャリアがあるという感じなんですかね。
でも面白いのが、当時の自分は(ピアノや作曲に関する)挫折を挫折として認識していなかったんですよ。なんならピボットしてやったぜ、みたいな。「おもしろ重視で全部の話に乗っかっていったら、気づいたらエンジニアになってました」くらいの気持ちだったんです。
DeNAの最終面接で「これまでにした一番大きな挫折はなんですか?」と聞かれたときも「いや、ないっすね」みたいに答えていて。「じゃあ高校とか大学のことを振り返ってみましょう」と言われていろいろ話していたら、「それって挫折じゃない?」と指摘されて「はっ、そうか!」と。
当時は今と比べるとあまり振り返らないタイプだった?
そうだったのかも。たいして考えてなかったのかもしれないですね。
固執はしない。それでも手を伸ばし続ける
過去のインタビューやYAPCの講演を見ても、やはり「エンジニアリングで突き抜けることを選ばなかったことが負い目」という言葉が印象的で。自分のなりたい理想像とできることを意識して擦り合わせるタイミングがどこかであったんですか?
ありましたね。たぶんずっと意識はしていたんですけど、自分を見る鏡が磨かれていなすぎて、虚像を見ていた気がする。(技術で突き抜けることこそが)自分の向かう先……いや違うな、求められていることだと思っていた。だから期待に応えられていないとずっと思っていて、それが苦しかったんです。
時代的にはスーパーハッカー以外のロールモデルもすでにいましたよね?
もちろん。とてもお世話になったマネージャーの先輩もいらっしゃいますし。その人のことを「自分はそんなキャリアは歩まないぜ」と思っていたかと言えば、全然そんなことはない。尊敬してました。ただ自分はそうではなく、技術で突き抜けることを期待されていると思い込んでいた。誰も頼んでいないのに。
それは思い込みかも、と気づいたのは?
たぶん10年くらいかかりましたね。冒頭でお話しした「思ったほど評価されないな」と感じている時期があって、最後の3、4年は薄々勘づいているんだけど、でもどこかで求めている自分がいるみたいな状態で。寝起きみたいな。それが「虚像だったんだな」とちゃんと自分の中で腹落ちさせられたのは、2023年の3月です。
YAPCで例の講演をしたとき、ということですか。
4社目のCake.jpでCTOとして2年くらいやって、事業を前に進めるために必要なこととか、会社を会社たらしめるために必要なこと、その中でエンジニアが担うべきロールはといったことを曲がりなりにも言語化できるようになってきた。そんなタイミングでちょうどYAPCがあるということで、いいタイミングだしキャリアを振り返ってみようかなと思いました。
新多さんがYAPC::Kyoto2023で講演した際のスライド「あの日ハッカーに憧れた自分が、『ハッカーの呪縛』から解き放たれるまで」
(学生時代の)2011年に火を灯してもらったところから今までを振り返って、ハッカー憧れを自分はどういうふうに昇華させていったのかというプロポーザルを出してみた。そうしたらあろうことか通ってしまったので、頑張ってお話ししたら、想定以上の反響があって。
なににびっくりしたかって、私と同じようにもがき苦しんでいる人がこんなにもいるのかと。特に若手の、新卒3年目くらいまでの人だと、自分なりの価値基準がまだできていないから、周りの強い人たちを見て「自分はこんなに強い人にはなれないのではないか」「この先エンジニアとしてキャリアを歩んでいくのにふさわしくないのではないか」といったことを考えてしまう。そうやって苦しんでいる人がすごく炙り出されて。
かつての自分みたいな人が今でもたくさんいるんだということと、そういう人たちに対して「こういう価値基準もあるよね」というものを一応お渡しできたという実感がそこでできた。それで「ああ、やめよう」と思いました。「もう大丈夫だな、私は」と。
逆にちょっと遡って、CTOに就任したときはどうでしたか。「CTOまでいったぞ!」という感じ?
いえ、全然。やっていることに名前がついただけだなと。入った段階からそのポジション前提でオファーをもらっていましたし、入って2、3ヶ月で実際に類する業務を始めていたんです。でもその時点では肩書きが「開発部長」という状態なので、スカウトの返信率がとにかく悪いんですよ。「なんの実権もなくていいから、とにかくスカウトの返信率を上げるためにCTOと名乗らせてくれ」みたいに言っていたくらい、結構困っていたので。「CTOになった!」という特別な感慨はないです。
ただ、CTOというパスがあると入れる場所が結構ある。それによって得られたコネクションや知見がすごくあるので、すごく感謝しています。
LayerXに移ったのは?
10数年前に遡るんですが、学生スタートアップをやっていたときの同僚にうちのCTOの松本がいて。仲は良かったのでその後も年に2回くらいのペースで会って、壁打ちとか、「最近どう?」みたいな話はずっとしていました。
特に前職から「CTO候補としてどうか」というオファーをもらったときには、マネージャーを経験したことがない、チームメンバーとしてギャーギャー騒いでいただけの自分に果たして務まるのかどうかと、人並みに悩んだんですよ。それを松本に相談したら「あらたまさんはバランサータイプだからたぶんいける」と言われて、なるほど、彼が言うならきっといけるんだろうと思って、オファーを受けた経緯がありました。
実際なんとかはなっていたので、「あのとき背中を押してくれてありがとう、ところでそろそろ」みたいな、そんな流れです。「うちにどう?」というのはずっと言われていましたし、ほかの仲間も含めて「いつかどこかでまた一緒に仕事したいね」というのもずっと言っていたので。
今回に限らず、転職をする際は一緒に働く人を重視する感じですか?
きっかけとしてはそうです。これまでもそうでした。人に誘ってもらって興味を持って、この人「たち」と働きたいになれたら、移ってくるという感じ。「この人」一人だけだと、その人がずっといるかはわからないですし。会社がどこに向かおうとしているのかとか、そのために何が今足りていて、逆に何が足りていなくて、自分がマッチするのかしないのか、みたいなことは一応ちゃんと見てます。
今後のライフプランはありますか?
10年後こうなりたい、とかはあまりないですね。猫と一緒に暮らせていれば。飼える家に昨年引っ越したので。
EMという立場になられた今では、ハッカーへの憧れももう完全に払拭された?
いや、ハッカー憧れみたいなのは、固執しなくなったというだけで今もあるんですよ。あるのも含めて自分だと思えるようになったので。そこに対して手を伸ばし続けるために、技術力、エンジニアリングからすごく離れるみたいなことは今はやりたくないなと思ってます。相対的に割合が減って、1割とかになってしまってもそこは手を伸ばして。
それと、会社って結局人が寄り集まって事を成しているものなので、それをブーストさせるのも棄損させるのも、人と人の関係性だと思っています。事業に関する戦略をどう立てるかというのももちろん大事なんですけど、それをどうやり抜けるかみたいなのも、会社がちゃんと成長していくためにはすごく必要なファクター。そのためには関係性というのが一番テコがかかるところだと私は思っているし、自分はそこに力を割くことがパワーの全体総量を一番大きくできると考えているので。これからもそういうところに手を当て続けることを考えるんだろうなとは思ってます。
エンジニアリングや技術が自分の中で占める割合が、以前より小さくなっている、とは言える?
技術書を読むスピードよりも組織なんかの本を読むスピードの方が早いので。つまりはそういうことかなと思います。
そのことに対する寂しさは?
あまりないですね。たぶんHOWに関するこだわりがそんなにないんだと思う。LayerXは割とそういう人が多いので。「無法者集団だね」って話しているんです。結構好きなんですよ、そういう「成果が出るならなんでもいいじゃん」みたいな感じが。
内発的動機をキャッチする
このメディアでは仕事そのものだけでなく、プライベートな事情やこだわりが仕事にどう関係しているのかも描けたらいいなと思っているんですが、暮らしの中で大切にしていることはありますか。たとえば趣味とか。
音楽ですかね。ライブとかフェスとかに行くことが多いです。フジロックほど大きくない、もう少し小規模なほうが好きですね。あとは美味しいお酒と美味しいご飯が好き。少人数で美味しいご飯を食べるのが好きです。ここ2年くらいはそっちの比重が高くなっていますかね。
趣味でEMが集まるミートアップなどもやっていますし、全然業界に関係なく、ビールとか音楽でつながった仲間との場みたいなのもすごく楽しいです。「異常なこだわりの発露」みたいなのがすごく好きなんですよね。「それにそこまでやる?」みたいな。島根の板倉酒造というところに推しの杜氏がいるんですけど、こだわりが異常なんですよ。ご本人のお人柄もすごく良くて、推してます。そういうお店や人たちのことを推して生きてます。「推しの新作が出た!行かなきゃ!」って。
無理やり結びつけて考えたいわけではないんですが、「異常なこだわり」と聞いて、やはり「技術力で突き抜ける」話が思い浮かんでしまいます。突き抜ける人って周りには理解できないこだわりがあるものだと思うので。そういう突き抜けた人たちの存在が「あなたはそうではない」と否応無しに知らせてくることが人生にはあると思うんですけど、そのタイミングって人生のどのあたりにあるといいと思いますか?
早めに現実を知った方が軌道修正が効くという意味ではいいけれど、一方であまりに早すぎるとチャレンジをやめてしまうかもしれない。自分でコントロールできるわけではないし、あまり意味のない問いかもしれないですけど。この辺りに関して何かお考えがあれば聞いてみたいです。
テンプレのような回答になってしまいますけど、自己評価を他者に委ねているうちは何をやってもダメだと思う。それは自分を振り返ってもすごく思います。それよりは内発的動機に目を向ける機会がもっとあれば良かったなと。
その内発的動機というのは「これをやりたいんだ!」という強烈な欲求のようなものとして立ち現れることはそうそうなくて。「これよりはこっちの方が自分は楽しめるな」とか「他の人が発揮していないこだわりを発揮しちゃってるな」とか、「他人がやっているこれが許せない!」とか。なんでもいいんですけど、そうやって自分の心が動いた瞬間をちゃんと自分でキャッチして、それはなぜなのかを深掘りしていって、それをよりできるためには誰にどうしたらいいだろうというふうにアクションにつなげていく。それを繰り返すことで、自分自身を認めてあげることにもなるし、多少なりとも評価がついてくるようにもなると思うので。
振り返って思うのは、音楽に関しても、エンジニアリングに関してももしかしたらそうだったかもしれないですけど、諦めるのが早過ぎたなと。ピアノはまあまあやっていたので「早すぎた」というとちょっと違いますけど、もっと頭を使って演奏できたよな、何も考えずに取り組んでいたなと思って、すごく悔しくなったタイミングが数年前にありました。
作曲に関しても一緒で、苦手だなんだと言って、やる前から諦めてなかったか。基本的にアウトプットの質はインプットの量とそれをどう経験に落とし込めたかの掛け算だと思ってるんですけど、それをやってきたかと言えば、やらないうちに諦めていたというのがあって。すごくもったいなかったなと思うし、今でも後悔していることの一つではあります。
「やり切ったけど、ここまでの高みには届かなかった。だからばっさりやめて次の道を探そう」と言えた方が、こうやってしこりが残らなくていいなと。なので、自分なりにやり切ることは改めて大事にしたいなと思っています。
周りからの評価以前に、自分なりにやり切れたと言えるかどうかが大事?
うん、自分がよしとすればいい。何をもってよしとするかの判断基準が、他者から認められるとか、名声を得るとか、他者に依存した自分ではコントロールできないものになってしまうと苦しいよね、という感じだと思います。
そうそう、まったく関係ない話かもしれないですけど、そういえば最近、コピーバンドを始めたんですよ。
とある飲み会の後に「好きな曲を好きなだけ歌い散らすカラオケをやろう!」となって、好き勝手歌っていたら、その中の一人がめちゃくちゃテンションが上がってしまって「バンドやろう!」と。その場は「えっ?」という反応だったんですけど、後日「スタジオを借りました」「課題曲はこれ」「あらたまさんはボーカルね」と言われて、めちゃくちゃ笑ってしまって。
まさか自分がバンドでボーカルをやるなんて夢にも思わなかった。でもせっかくだからやってみようと思って、やってみたらすごく楽しくて。
昔はそういうアマチュアの活動はただお金が出ていくだけだし、なんのためにやるんだろうくらいに思っていたんですけど。集まって何かを一緒に作るという体験自体が、何事にも変え難い楽しさとして認識できるんだと飛び込んでみて気づきました。
今は行けるところまでみんなでやってみよう、となってます。5曲くらい溜まったらライブもやろうかとか、一応そんな話も。社会人になると箱を借りるのもそこまでの出費ではないんですよね。学生時代は大変でしたけど。「えっ?こんなもんで借りられちゃうの?」みたいな。CTO仲間で立ち上げたバンドなので共通言語もあって、仲良く楽しくやれてます。
それもまた他者に委ねず、内発的動機に目を向けるということなんでしょうか。
そうですね。10年前だったら間違いなく、誘われても「いいです」となっていたと思うので。
取材協力: 「里武士 馬車道」 (Instagram)